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人柱と荒ぶる神

温暖化の影響でしょうか、「経験をしたことのない」という冠がつく異常気象が繰り返されています。

北の近海にマンボウが現われたり、熱帯雨林にみられる、ゲリラ豪雨が多発したり、列島各地に自然災害を引き起こす。

急峻な山地を背景とする国土に多いのは、豪雨による河川の氾濫や地すべりで、土砂災害は、痛ましい人命を呑みこんでしまう。

佐嘉の一級河川、嘉瀬川は、治水の神様と呼ばれた成富兵庫茂安らの功績により、自然の力と調和をする
優れた治水工法により、広大な耕地を開拓してきた歴史がある。

その一方で、現在では負の歴史として伏せられている「人柱」などの伝承もあった。

それは、佐嘉の郡の地名のいわれについて、『肥前風土記』の記述を読むことでも確認できます。

        人柱さま
   
【郡の西に川あり。名を佐嘉川と曰う。年魚(鮎)あり。其の源は、北の山より出で、南に流れて海に入る。
  山の川上に荒ぶる神有り。往来の人、半ば生き半ば殺にき。ここに県主らが祖大荒田、占問いき。

時に土蜘妹の大山田女、狭山田女といふものあり。二の女子の云へらく、下田村の土を取りて、人形(ひとかた)、馬形を作りて、此の神を祀らば、必ず応へ和むことあらむとまをしき、即ちそのことばのままに、此の神を祀りしに、神此の祀りを受けて、ついに応へ和みき。

ここに大荒田云へらく、此の婦はかく実に賢しき女なり。故れ賢女を以て国の名と為むと欲うといいて、因りて賢女郡(さかしめのごおり)と日う】、とある。

風土記の記述には、郷里制が見られ、施行されていた霊亀元年(715)天平11、2年(739-740)までの間に作られたものとされる。

        嘉瀬川

記紀の編纂前後は、遁甲とよばれた、陰陽寮の影響を強くうけていて、佐賀川(嘉瀬川)の氾濫を沈めるために、土蜘蛛の巫女に占うと、下田(梅野村)の土で「生贄(人柱)」の代りに、人形(ひとかた)や馬形(うまかた)をこしらえ、荒ぶる神に奉げることにより、水神の怒りを鎮めたとされる。

この地には、現在でも「七郎神社」という人柱の遺徳を祀ったという神社があることからも、史実として治水の工事のために、人柱や土人形などを沈めたということが分かります。

人柱については、特異なことではなく、全国的にも広く伝えられているものようだ。
      
陰陽五行説によると、水の氾濫を制するには、『土剋水』という「五行相剋」の理を実践する必要があり、人は、「土気」に配当されるために、「生贄」としての「人柱」を水神に奉げたと推測できる。

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記述では、土で人形や馬の形を代用として納めたとあるが、もちろん土は「土気」であり、人形は人柱の代用で、馬(午)は、「午戌寅」の三合により土気になる。

同時に、馬(午)は、火気の旺気であるため、土で作った馬(午)とは、「火生土」による五行相生の呪力をかりた強力な「土気」の力をもって氾濫を鎮めたという意味なのでしょう。

佐嘉の地名の由来とされた「賢し女」とは、荒ぶる神を鎮めたことによるとされるが、実は、生け贄の代わりに
土人形(つちひとかた)や土馬形を献じた叡智のことともとれる。

このように、古代から近代まで、我が国の祭祀には深く陰陽五行の影響がみられたことは最早、定説となっているものです。





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成富兵庫と治水

藤沢周平の時代劇ドラマ【蝉しぐれ】の冒頭の部分で主人公、文四郎が普請組をつとめる父の助左衛門の代わりに大雨による洪水から村を護るために駆けつけるシーンがある。

蛇行する川の氾濫、出水を防止するために、決壊させてはならない流域より上流の堤を、人足の動員により堤を切って勢いを増す濁流を原野に放水する作業である。

現代なら、河川の近くまで宅地化が進んでいるため、堤防を高く築き土嚢を積み堤防の決壊を防ぐ工法が主流のはずですが、中世から近代までは増水する水を特定の箇所を破壊させ逃してやる減勢工法でした。

              のり摘み2
                
まるで江戸の火消しが延焼を防ぐため、燃えていない周囲の建物を壊すことにより防いだ様にも似ています。火も水も同じように荒っぽくも見える方法ですが当時の方法としては他の選択を許さない手段でした。

治水に戻しますが、当時は治水工法として河川を直線状に変え強固な堤を高く築き水を速やかに流す「紀州流」と河道の付け替えや河川の蛇行を利用し、一部を越流させてゆっくり流す「関東流」などが河川の形状により行われていた。

佐賀に於いては北部に標高千メートル級の山を有し急峻ですが、下流域は潮の干満差が大きい有明湾へ注ぐ低地が6割くらいを占めているため、穀倉地帯の平野部は排水条件も悪く氾濫をくり返していた。

そこで、「紀州流」の工法は難しいため、河川の付け替えや乗り越し堤、遊水地への誘導など流量の減勢が工法となったようです。

          治水1

佐賀藩の治水の神様と謳われる成富兵庫茂安という武将は「徳川の世になりこれまでのように戦で領地を広めることはできないため、自ら耕地を開墾し治水により農業生産力を拡大していく他ない」と藩主に進言をして茫漠とした荒地や氾濫する湿地を耕地として開墾するため多くの治水普請を成功させています。

代表的なものには、筑後川の氾濫から耕作地をまもるため12年の歳月をかけた「千栗の土居」、水不足になりがちな神崎地区の用水を確保するための「蛤水道」など大工事を成功させて領民の生産力向上に貢献している。そのため、成富兵庫茂安の名から命名した町が兵庫町や北茂安町などとして今でも残っています。

 成富兵庫茂安は、普請方ではなく初代鍋島藩主、直茂の重臣として活躍した根っからの武将。
戦乱期の戦に幼少時より加わった傑物で、藩主の信望もあり直茂より「茂安」の名を頂いたといわれるように、上記のような新田開発の進言をできる立場であったようだ。

上記の他にも代表的な取水堰に嘉瀬川から取水をする石井樋があり多布施川として水運のほか城下への生活・農業用水の取水と佐賀城下の堀を満たす防御濠の水となり佐賀江川を通り有明海に注いでいます。

           滝つぼ1

成富兵庫の方法は、「野越」という方法で、水量が増勢すると予定した乗り越し堤より水流が越水して遊水地に流れこみ下流への増水氾濫を抑えるというものでした。
当然、越水する部分は決壊とは異なるため堅固にこしらえてあり流量を制御できるものです。

また越えた水は大きな流木や石が農地に入りこまないように水防の竹林を植えて防ぎ、滋養豊富な水のみが灌漑用の遊水地や周辺農地に流れるために、増収に寄与するようできていました。

またこのような防災農地の一定の部分は検見(役人が作柄を検査すること)による年貢減免(破免)にしたため農民がそこからの収穫があれば潤うように配慮していたようです。

ダムのない時代に自然を征服するのではなく自然の変様に対応する工法のようでした。
水の力に逆らわず利用することで耕地の生産力をあげる治水と利水をセットとして考えていたようです。

ダムの撤去というあらたな河川環境の回復へ踏み出した自治体もあるように、もう一度河川環境と中世の水との関わり方を見直してみる必要があると思う。

山川異域 風月同天

鑑真は743年55歳のとき、唐を訪れた留学僧・栄叡、普照より、朝廷からの「伝戒の師」としての招きを受け、渡日を決意したが、その後の10年間に5回もの渡航の失敗と視力の喪失を伴い、天平勝宝5年(753)、6回目の65歳での挑戦で漸く12月20日、薩摩の坊ノ津に辿りつき、有明海を北上し、佐賀の嘉瀬津の港に上陸した。

12月26日は大宰府で初めての授戒も行ってのちに平城京へ到着したとされる。

                薩摩坊の津

翌754年には東大寺に日本初の戒壇を設け、76歳までの10年間のうち5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺にて過ごし、天皇を始め多くの人々に授戒をされたようです。

鑑真上陸の地は鹿児島と佐賀にそれぞれ記念碑があるが、鹿児島の坊ノ津に寄港しながらも目的地に向けて北上し佐賀の嘉瀬津に上陸し陸路、大宰府へ向かったとみるのが自然に思う。

上陸記念碑は佐賀県、嘉瀬町の森林公園内に建立され、傍には誕生の地、揚州市より贈られた瓊花(けいか)が植えられている。

                鑑真上陸記念碑

なお、皇帝の反対を押し切ってまで日本に渡った理由については、いろいろな説が言われているが、『唐大和上東征伝』には、鑑真が来日するきっかけになった注目すべきエピソードを伝えている。

鑑真が来日を請われたとき、次のようなあの長屋王との経緯を述べたという。

「聞くならく、日本国の長屋王、仏法を崇敬し、千の袈裟を造り来り、この国の大徳衆僧に施す。その袈裟の縁の上に四句を繍着していわく『山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁』此をもって思量するに、誠にこれ仏法興隆し有縁の国なりと…」 鑑真は心を揺さぶられ、日本行きを決意したのだったが……

苦難の末にも来日を果たしたとき、長屋王はすでに藤原氏の陰謀により謀反の罪で自害させられていた。

                 鑑真3

鑑真と朝廷の蜜月も長くは続かず、鑑真は正しい仏法を伝え多くの僧を輩出するつもりだったが、朝廷のホンネは税金逃れの出家である私度僧を減らすことで、両者の思惑は対立し、758年、鑑真は大僧都を解任され東大寺を追われ、そのご熱心な信者からの寄進をえて唐招提寺を建立したという。

正月と節分

春節に入り、中国、香港、台湾からの旅行者が大挙来日して話題となっています。
今年は特に、武漢由来の新型ウィルスによる感染症と重なり注目されました・・・
春節は中国の旧正月のことで、いわば正月休みの期間。日本も年末年始の正月には、ふるさとへの帰省や旅行などで国民の大移動が生じます。

新しい中国の成立にグレゴリオ暦を採用し、1月1日を元旦として、それまでの旧暦の正月初一を「春節」と区別しました。
中国や台湾は、今も春節で祝うことのほうが慣例ですが、江南に近い沖縄や奄美諸島などでも、わりと旧暦の正月を大切にしているところは多いようです。

 春節


暦の起算は冬至の日時を確定することより始まるのですが、冬至を起点としながらも、直ちに暦の上の1年の初めとしたわけではなく、太陰太陽暦では、冬至、大寒、雨水を含むそれぞれの月が正月となる資格を有すと考えてきました。

夏王朝の正月は、雨水を含む寅の月、殷の時代は、大寒を含む丑の月、周の時代は、冬至を含む子の月を正月としました。
三つの正月を、それぞれ天正(周)、地正(殷)、人正(夏)とした。現行暦は、冬至は12月ですから、正月は丑の月となっています。伝統文化を育んできた旧暦は、寅ですから凡そ1カ月から2カ月弱のズレを生じています。

日本の旧暦は、天保暦でしたが、明治5年12月3日を明治6年1月1日と改められ、グレゴリオ暦(太陽暦)に改暦されて以来、旧暦の通称とされています。

旧暦(太陰太陽暦)は、元々農事暦として工夫されてきましたので、農業を主産業とする民間にとっては欠かせない暦として、改暦の後も併用されてきました。
農作業の目安や年中行事の標は、節切によるものが使われて来ました・・・・八十八夜、二百十日、二百二十日 、等々。

     二十四節気


節切の暦では、正月節(立春)~2月節(啓蟄)の前日までが正月であり、2月は、啓蟄~清明の前日まで、3月は清明~立夏の前日まで・・・以下省略。
節あるいは「節気」は、暦月の間隔を区切り、中あるいは「中気」は、月の名前を決めます。「立春」は、二十四節気の正月節となり、節分は季節を区切るその前日としています。つまり本来は、節分の日は、立春、立夏、立秋、立冬の前日のことでしたが、立春前の節分行事がひときわ多いのは、立春正月を継ぐことからでした。

二十四節気は太陽の位置により決められるため陰暦での気候のズレを補正し、季節を春夏秋冬の四季に留めるために考案されたものです。1年を12の「節気」と12の「中気」に分け、それらに「暦月」の区分とその月の名前がつけてきたものです。

旧暦における1ヶ月とは、月の朔望により、朔日から晦日までの区切り、朔日から1カ月は、約29.5日の間隔のために12ヶ月間では、約29.5日×12=約354日となり、太陽暦の1年より約11日短くなる。そのままでは季節とのズレが進んでしまうため太陰太陽暦は、暦と節気のズレがひと月分に近くなると、閏月を入れて補正を行い、3年に1度くらいは1年が13カ月となりました。切米給金のお武家さんはさぞ窮したに違いありません。


    立春

立春の前日の節分が、どうしても立春(正月節)の年越しの性格を強く残すことは、止むを得ないようです。
立春から新しい季節が始まるため、かつてはその前日である節分が年越しでした。旧暦は正月を、「雨水が含まれる月の朔日」としたため二十四節気の立春との間合いは、一定範囲において変動するものになりました。

立春が旧正月のあとに来る場合は「新年立春」ですが、元日と立春が丁度、重なるケースを「朔旦立春」として祝いました。更に、旧暦では、年によって正月の前に立春を迎えることがあり、これを「年内立春」といいます。

――― 年のうちに春は来にけり一年を、去年とやいはむ、今年とやいはむ (古今集)

 正月2


節分の年越し
本来、節分は立春を正月節とすると大晦日にあたるので、節分のことを「年越し」と呼んだ地域もありました。節分の食べ物といえば恵方巻きですが古くは「節分そば」を年越しそばと呼んでいたそうです。「恵方巻」きそのものも歳徳神の方位を向いて頂くようですから越年行事そのものです。

他に、節分の夜、イワシの頭をヒイラギ(柊)の枝に挿して家の入口におく風習は全国にありましたが、悪臭を放つもので邪気を祓うとして、他には、ネギ、ニンニク、髪の毛を燃やしたもの等も用いたという。その際、田畑の害虫の名を唱え、害を防ぐマジナイをしたという。今では農薬や殺虫剤により虫害の意識はありませんが、昔は大飢饉の原因となりました。

鰯


イワシ(鰯)の頭をヒイラギ(柊)の挿すとは、別の説では、冬の象徴である鰯(魚へんに弱いと書く)魚は水、水は冬の気であり、魚の弱とは冬の弱まった季冬を冬の木(柊)に挿し送ってしまう冬送り=迎春のマジナイだともいわれます。
九州の一部では、年越しには、必ずイワシを焼いたものを食べるところがあるのも、同じ理由に違いない。

節分に、炒った豆をまく「豆まき」は、穀物には穀霊が宿るため忍び寄る魔物を祓うためと云われますが、陰陽五行説でみると、豆は硬くて丸いもので、五気では金気を表す。立春に春(木気)を迎えるには、五行相剋である「金剋木」の金気を封殺して春の木気の障りを除くことが迎春の呪術であったとします。

豆撒き

金気を相剋するのは「火気(火剋金)」のため、正月行事には、盛んに火焚き行事が見られる。金気の豆を炒ったものを撒くのはその象徴であり、撒く人に年男が登場するのは、まさに越年を意識した催しです。

豆を年齢の数たべる風習も年越しの名残なのでしょう。鬼は、陰を表し、冬から春への鬼門(丑寅)の追放であり、牛の角を持った虎の皮のパンツをはき金棒を手にして丑寅のシンボルとして登場し、まさに五行説による迎春呪術ともいわれます。

立春を正月節としたもの、旧暦の雨水を含む月の朔日を正月としたもの、新暦の元旦を正月としたものの混在が、越年行事を多彩にしたに違いない。
2017年の節分は2月3日(立春の前日)で、旧暦では1月7日、同日となっています。

七の呪い

「七」という数字は、人の誕生や死(浄土への誕生)と大きく関係があると見られます。

新生児は、「お七夜」を経て産屋からこの世に誕生し、七歳までは「神の子」とされ、七歳になって人の子として生まれるといわれました。

こんにちと違い新生児の死亡率も高く七日、七歳を超えるまでは不安定のためとされてきましたが、また、人が亡くなって初七日から七×七(四十九)日を経過し、来世に誕生し、それまでの間は「中有」に漂っているとの信仰がありました。

 火2


 新しい年が明けて七日目に、まな板に七つの道具を並べて、七度叩いて菜を刻んで、春の七草を食べる、という「七」を執拗に重ねるのは何故なのでしょう?

正月七日を「人日」と呼んでいたこと、七日正月にも関係があると思う。

漢時代の占書によると、一日は鶏、二日は狛、三日は羊、四日は猪、五日は牛、六日は馬、七日を人の日として
人を敬う「人日」としたことのようだ。

するとこのように、七と人の関係をみるときは、七の数字に込められた呪術を考えないと理解できないことになります。

そこで、易と五行で考えると一、二、三、四、五の生数は、五気の誕生した順に、水、火、木、金、土に配当されており、六~十はそれぞれ、一~五までの数に五を加えた成数として生数の気の働きの数といわれます。

すると「七」は二の「火気」の成数となり、火の用に配されることになります。そこで五行相生では「火生土」の法則により、「火は土を生み」、土気は生死をとわずに「人」に配当されているため、人の誕生には「七」の数を祖神としてくり返されることになります。

神話の中で「ニニギノの子を一夜で懐妊し出産するコノハナサクヤヒメは産屋に火を放ち、炎の中で三人の子(ホデリ、ホスセリ、ホオリ)を生むシーンは火の介在であり、更に、その臍の緒を竹刀で断ち、打ち捨てた竹刀が竹林となった」とある。・・・繰り返される「竹」や「笹」は「火」のモノザネなのでした。

年が明けて年神を向かえ、神人共食を祝い、七日めに初めて人を祝うことが、「人日」としての七草の祝いと考えることが自然のようだ。

七種かゆ

加えて、「人日」は六日「馬の日」に続くことも、午(馬)は火であることから二重の意味で人の誕生を念じているものでしょう。

旧暦正月の最初の午の日を「初午」として豊穣を願う稲荷神社の祭礼も同型のものである。

これには「七」という数と五行の理を踏まえない限り、単なる古風として、伝統民俗の深奥までは気づかないように思う。
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