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太子の憲法はなぜ17条だったのか?

「和を以て尊し」は、聖徳太子17条の憲法の一条にあり有名な箇所ですが
この部分の「和」というのは、現代の民主国家的な意味での「全員の衆知を集めて・・」などという生易しい「和」でないことは意外と知られていません。

その証拠に、条文をよく読むとわかるのですが、その時代がどのような政治的背景にあったかをみると理解しやすい。

                蘇我馬子

聖徳太子は、用明天皇の皇子で母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女でしたが、政治の実権を握る有力豪族の蘇我氏による崇峻天皇の暗殺事件の後、擁立された初の女帝である推古天皇の下で皇太子として政務を担いました。

このような政情の不安定な中で推古天皇の摂政として蘇我馬子らと協調しながら政を行い、遣隋使を派遣し大陸の文化や制度もとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど、天皇を中心とした律令国家体制の確立を図ったものでした。

この背景の下に、太子が定めた「十七条の憲法」をみると・・・
一に曰わく、「和を以って貴しとなし」とあるのですが、その続きを読むと・・・
「忤(さから)うこと無きを宗とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし」とある。
続いて、
三にいう、「王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがえ。君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。天が地をおおい、地が天をのせている。こうして四季が正しくめぐり、万物の気が通う。

それが逆に地が天をおおうとすれば、秩序は破壊されてしまうため、君主のいうことに臣下はしたがうべきこと。
上の者がおこなうところ、下の者はそれにならうもの」と、君臣の秩序を強く求めているのが「和」という意味のようです。

                太子3

太子は謎の多い人物ですが、この条文をみる限り懸命に天皇を中心とした律令体制を求め「17条憲法」にもそのことが表れているのが「和を以て尊し」の下りのようです。つまり「17条の憲法」は、それ自体が朝廷体制安寧の「呪術」でもあったようです。

このことを吉野弘子氏の説明で解くと、この条文はそのまま当時、先進の学問として採用されていた易経を引用していて、易経によれば、「17条の憲法」は、「17」という数理にも込められているという。

17は(9+8)の和であり、9は易学の数理からは老陽であり「天・乾」を示し、8は小陰で「沢・兌」を意味するというのだ。
9(乾・天)は君徳の力を意味するもので、8(兌・沢)は臣下の忠をあらわし、易学の八卦のいう「天沢:履(り)」の卦を示すものだといいます。

「この履卦は、上は天、下は沢の卦であり、天が高く、沢が低く上下正しい位置にあり。天の徳は剛であり、沢の徳は柔のために、臣下が君主に従って行動する道を象徴している」、また「履」は64卦のなかで最も修徳の卦として「君を上卦に、臣を下に置く」君臣の礼を求めたものという解釈でした。(図)

                     天沢履

つまり「履卦」により君臣のきびしい掟を守り政治を行うように求めたことが17条という「数」に著わした命だったといいます。

従って太子の唱えた「和」は、そのような厳然とした位階にもとづいた封建律令国家としての「和」であり近代民主国家のそれとは異質なものだったということです。
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社日さん と田の神

田の神さまを、具体的には「社日さん」と呼ぶところが多い。長野県ではシャニチサマは、田の神様で春の社日に山から降りてきて、秋の社日に帰るといい、餅を搗いて祀ったという。

佐賀市川副町 、犬井道では、社日さんは田の神様で、田の隅に居られるのでお彼岸の前後に祀るという。

群馬県館林市には、社日神社があり、社日もうでと称して社から土や砂をもらい受け田畑に撒き入れる風習があったらしい。どうやら田の神は社日さんと呼ばれ、春分、秋分の日に最も近い戊(つちのえ)の日に祀る作神のようでした。

               社日祭2

「社」とは「土を祀るヤシロ」のことであり産土神でもある。神とは天を祀ることである(天神地祇)。また「社稷」とは土(社)と五穀(稷)の神をいう。
従って、社日は「土を祀る農神の日」のゆえに、春分、秋分に最も近い戊(ツチノエ)の日に行うものだろう。戊(つちのえ)は十干では「土の兄」であり五気では強い土気を表す。

また社日を「立春」、「立秋」後の第五番めの「戊」の日と規定する地域がある。これは、「五」という数は、五行においては土気の生数とされるからだろう。五行では「一(水)二(火)三(木)四(金)五(土)」とされ五気の働きを示す成数は、それぞれ一から五までの生数に、五をプラスした六、七、八、九、十のことである。

春の社日を「春社」といい、五穀豊穣を祈願し、秋の社日を「秋社」として収穫に感謝し祭るという。土は作神であり四時順行をつかさどるものである。

田の神は、春に降りて秋に山の神として帰られるというのは全国共通のようであり、多くは旧暦の二月(現在の三月)に里に降りるというのは一致していて、春分の日に近い戊の日(社日)に山から降りるということとも重なる。

他に、二月の八日(こと八日)に地に降りて十二月の八日に帰るという地方もあるようだ。旧暦二月は卯の月で木気の正位であり「八日」の八は木気の成数(3+5)であるから「こと八日」は「農作業こと始め」に特別の日のようだ。

この日を針供養にあてる習俗がみえるのは、木気(農事)の敵となる針(金気)を供養する(送る)日としてなのであろう。
そして田の神が山に帰るのは一般的に「神無月」である旧暦十月とするものが多い。

              田の神2

十月は「亥」の月になる。「亥の月の亥の日」や「十月十日」に亥の子祭りや「トーカンヤ」などという「地神」の祭りを行う。

亥とは「閡(とじ)る」という意味で陽の気が全くない純陰の神無月でもある。神無月とは神が居ない月であると同時に、神が甦る再生の月でもあり。この月に神々は出雲に向かうのであり出雲は、大和からみて西南の坤の地であり純陰の地で神々が再生を果たし甦る地である。ゆえに出雲では「神在り月」とされている。

田の神は、二月に里の家に降りられ、五月の田植え祭に「サオリ」として田に迎えられ、田植えが済むと「サノボリ」として再び家にあがり、田からもってきた苗をカマド神に酒や供物と共に供え早乙女や田植を手伝った人々を招いて直会を行ったようだ。

            田の神3

その後、刈上げまでの間、稲の生育を守護し、収穫の祭りを経て山に送られると考えていたのでしょう。
農事の神さまは、田の神(山の神)であり「木気」の作神のようでである。

四季において春(寅・卯・辰)は木気の季節だが、支の三合で木気は「亥」に生じ「卯」に盛んとなり「未」に送られるため、田の神さまは亥(旧暦十月)と卯(旧暦二月)をなぞって祀られる習俗が多い。

ちゃんと陰陽五行の理を踏まえた祭祀として行われたように思える。

佐賀の水かけ祭り

佐賀県神埼市千代田町、大島地区では250年以上も続いている伝統行事「水かけ祭り」(地元では「みずかかい」と呼ぶ)があります。本年は2月16日ありましたが、本来は旧暦の祭りのはずですが、締め込み姿の若者が、気勢を上げながら水を高く放り投げてかけ合います。

この地区には英彦山権現を信仰する講があり、当番にあたる家の床の間に祭神を祀る掛け軸をかけ飲食をしたうえ、夕方になると締め込み姿となった若者たちが地区を廻るうちに他の講仲間と道で出会うと手に持ったバケツで水田の用水であるクリークの水を汲み上げて互いにかけ合うものだ。

            みずかけ2

祭りの目的は、水をかけ合い、身を清め、1カ月後の3月には、無病息災と五穀豊穣の祈願に、「英彦山参り」をする目的の禊ぎ祓いの伝承のようです。

英彦山権現は、福岡県田川郡添田町の英彦山にある神社のことで日本有数の修験道の霊場として栄えた。
天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)を主祭神として、伊佐奈伎尊(イザナキノミコト)・伊佐奈美尊(イザナミノミコト)を併祀しています。

英彦山は頂上が三峰に別れ、中央の中岳が神社の上宮の鎮座する主峰であり、山頂から流れ出る河川は豊前、豊後、筑前三国の田畑を潤す「水分神」の信仰を得ていたといいます。

            英彦山
                 
天忍穂耳尊は、穂という字をもつように、稲穂の神、農業神として信仰されていたようです。
大島地区の英彦山権現信仰もクリークを巡らす、筑後川の流域にある稲作の豊穣を祈る講であったとされ、1ヶ月後の3月の英彦山神社の参拝のために身を清め、講を代表して五穀豊穣を祈願してくるための祭りだったといいます。

今では新暦で行うので厳寒の季節ですが、本来は旧暦の2月のはずでしたので、今なら3月の中旬の今ごろでしようか?
旧2月は、十二支では「卯」の月であり「寅卯辰」の春(木気)の季節の正位で農業神を祀る最適の時期であり、支の三合でも「亥卯未」の木気の正位でもある。

また八卦によると、卯月は「雷天大壮」とあり、大いなる命の水を高く掲げる爻に合致している。
そうすると旧暦3月は、同様に「沢天解夬(カイ)」となるため、高い山に神を祀るという卦となっています。

                らいてん
                沢天カイ

沢の象は、少女であり巫女であり水でもあり、天(高い所)のうえに巫女が水神をまつるというカタチとなっているため、旧3月は高山遊びとか、山の水分神に参拝をする風習が多いのは頷けるものです。

稲作地帯の信仰として、卯の月に農業神を祭り、クリークの水を汲みあげ高く掛け合い、3月になると稲穂の神を主祭神とする英彦山権現に代表が参拝し五穀豊穣の高山祈願する伝統が設計されて250年もの間続いてきたものでしょう。

然し今では、なぜ長い間このような祭りが続いてきたか理由も示されることはないですが、きっと当時の山岳信仰に影響のあった易、陰陽五行思想による論理的な祈りが込められていたものと思う。

鮒(ふな)市と恵比須

「さあ、いらっしゃい いらっしゃい」
まだ夜も明けない暁更5時頃から、活きた鮒を入れた箱を挟んで近隣より集まった客と鮒市の売り子が値を交渉し合っている。

「鮒市」は、二十日正月に出す料理「ふなんこぐい」の材料の「鮒(ふな)」を買うために、前日の1月19日に佐賀県鹿島市で開催される朝市のことで、300年以上も続く伝統行事だ。

「ふなんこぐい」は、鮒(ふな)を丸ごと昆布巻きにし、野菜等と一緒に煮込む郷土料理で、時間をかけて煮込むために、味が浸み込み骨まで食べやすくなり、出来上がった料理は、恵比寿や大黒さんに供えて商売繁盛や無病息災を祈願するという。

                 鮒市2


同様の風儀には、近畿地方で正月に食べた「鰤(ぶり)の骨」を20日間、酒粕の中に入れ、牛蒡・大根等と一緒に煮て食べる事から「骨正月」ともいわれるものがある。野菜と一緒に煮て食べ、お節料理の食べ納め、正月の「祝い納め」とした。

正月にお迎えし「もてなし」を受けた歳神さまをはじめ、万の神々が、それぞれ御帰りになるため、1月20日には正月の飾り物など全て片付けて、正月行事の締め括りの日と謂われていた。

                  具足
                  
神々に供えた鏡餅を下ろし鏡開きを行ったのは、江戸時代に幕府が十一日に「具足(ぐそく)開き」を行うようになるまで、この「二十日正月(骨正月)」が古風の習わしだったという。

そうすると此の「二十日正月」に「恵比須神」を祭るのは、旧暦十月「神無月」の際の「恵比須祭」と同様に「留守神」としての恵比須神を祭る意味ではないだろうか?

二十日正月は、「二十日恵比須」と重なって本来は「鯛(たい)」を供えるべきところを有明海のこの地域では「鯛」がそれ程は獲れず高価だったため、カタチの似た鮒(ふな)を鯛(たい)の代用として用いたと謂われている。

煮込んで骨までいただくのは「骨正月」というお祝い納めの伝統を継ぐものに違いない。または作神(木気)を迎えるために、その邪魔となる金気(骨)をしっかり噛み砕いて食べることで冬を送り、春を迎えるためと考えられる。

                     夷まわし

恵比須と大黒が登場するのは、今宮の戎廻しが本来、対の二神であったために、夷三郎を事代主(蛭子との説も)としたことから、もう一柱の大黒様が加えられたものに違いない。

個人的には、大国主と協力して建国を助ける常世からの来訪神「少彦名(スクナヒコナ)」との組み合わせの方が合理的な気がする。少彦名は、「吾は是汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)也」と答えているからだ。

「ふなんこぐい」の通称は、「鮒の(煮)凝り」の「ふなんにこごり」が訛ったものといわれている。
正月の神々を送り、田の神を迎えるために同じ「木気」の作神である「恵比須神」を祀り、豊作を祈願するものだろう。

                     ふなんこぐい」

「鮒」は鯛の代用との説も、実は「鮒」という字が「餌に喰いつきやすい魚」という豊漁のイメージするなら「鮒」が予祝のモノザネだったとも考えられて、ここに「ふなんこぐい」と「恵比寿」が符合する機縁があったといえる。

寒風のなか、威勢のいい「鮒市」の呼び声を聞くと、強かな漁師たちの息吹が伝わって来る。

太良町の円座祭り

円座祭りは、佐賀県太良町大浦竹崎地区において正月の中ごろに行われる。
参加者は中学生くらいまでの男子 三、四十人が、上半身裸で集まり牛王という樫の棒の束を地面に叩きつけ奪い合うところから始まる。

円座は藁でつくった直径40センチほどの皿状のもので、「三こう」「五こう」「十こう」という三本の耳がついている。
円座の耳をもって空中高く投げあげると、先を削いだ長い笹竹で落下する円座を突き合い、その突いた部分により点数を出して競技をする祭りだ。特に「三こう」という一番小さい耳の部分を突いた者がよいとされる。

これを正月に行うのは迎春の呪術の祭りにちがいない。祭りの謎を解くには、大晦日から正月の未明に行う三重県伊勢湾沖に浮かぶ「神島」の八代神社で行われる「ゲーターサイ」と似ているため同系の趣旨をもった祭りかと思う。

                  ゲーターサイ2
                  
神島のほうは年末にグミの木を集めて直系二メートルくらいの輪をつくりそれを白い紙で巻いたもので、これは「アワ」という太陽の御姿だという。

これを島内の若者が海で精進潔斎して御幣のついた先のとがった竹竿でもって突進して突き合う奇祭とされる。

「ゲーターサイ」とは、「迎太歳」のことであり、新しい歳神を迎えることだろうと思う。
太歳は、新春の歳神さまであり木星の神格をもち五行では木気のために、新しい年神を迎える呪術としては春の木気の敵である古い天(乾)である「金気を剋殺する」ことが迎春祭祀の条件となるものだろう。

何れも旧暦の迎春行事であったものと思われるが、ゲーターサイは大晦日から正月の未明に新しい年神を迎える準備であり、円座祭りは一月の中ごろのため小正月の行事だったのだろう。

どちらも「丸い環」状のものを竹竿の先で突くものであり、突き手は若い男子であることは、小男は八卦では艮(丑寅)で季節の交替を掌る土気の働きを行うものである。

円座祭りでは男の子が上半身裸で煤を塗ってあるのは、裸も煤も土気そのものであるからだ。
丸いものは円(乾)天で六白金星であり古い太陽であるため竹竿でもって突き金気剋殺を演じるものだ。

どちらも竹竿で突くのは、竹は「火」のモノザネとされているからだろう。ここに五行相剋の「火剋金」を実践することにより「四時順行」を願う祭りとして成立することになるからだ。

このように祭りや年中行事は、人の交易を通じて共通の思いを背景にするものが多い。
この「円座祭り」もゲーターサイと共通のルーツをもつものであったにちがいない。
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