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北面天満宮とカッパの像

佐賀市の旧道、城下の北西を巡る長崎街道に位置する六座町という所に、珍しく社殿、鳥居が北方に面した「北面天満宮」と呼ばれる神社がある。

これは藩祖、鍋島直茂が龍造寺家の領地のあとを継いで佐賀城下の町造りに、北方の鬼門にたいする防備のひとつとして菅原道真を祭神とする天満宮を旧地の鍋島村蠣久より移築、勧請したものらしい。

南東に、有明海や筑後川を擁する佐賀城下の地勢は、1570年の大友宗麟の大軍の襲撃を受けた「今山の戦い」のように北方からの敵に備えることが軍事的にも、呪術的にも重視された。

               北面天満宮の河童

この北方の守護神「北面天満宮」は昔から火災除けにご利益があると云われて、六座町では以来、今日まで大きな火災には遭ったことがないと伝えられている。

理由は、宮の楼門の頭上に木造の「河童の像」があるためで、河童の「水の気」の働きにより火災を未然に防いだとするものである。

河童は、水神の零落した姿の妖怪とされるため、楼門の上に火除けの呪物として鎮座させているものであろうか。
異形の姿である河童は、十二支の申、子、辰の三支で「水」を表す造形のようですが、五行では三合の「水」を象形したものという。

                       河童

「子」、ネズミのような顔と、「申」、猿のような身体に、「辰」龍のような鱗と爪の手をもっている。また、背中の甲羅は北の方位を護る神獣「玄武」の形にちがいない。

玄武は、古代中国より伝わった方位の四神、東(青竜)南(朱雀)西(白虎)北(玄武)のひとつで、北(子の方位)の守護神とされる。蛇と亀が絡む姿で、高松塚古墳やキトラ古墳などの墳墓の壁面にも描かれている。

                     四神図

六座町の「六座」とは、商工業の許可を城下に得た同業の集団で、穀物座、木工座、金銀座、縫工座、煙硝座、鉄砲座を誘致していた職人の町でした。城下の街道は、武家屋敷を迂回するような防御のルートとなっていたが、火災についても特別な警戒をもって火伏せの呪術のひとつとして「水」の造形である河童の木像を掲げたものに違いない。

ただ楼門のこの河童は、甲羅や頭の皿はなく、裸の水夫か力士のように見えるがこれは河童の古形である治水や土木の専業集団であった筋骨豊かな河伯(かはく)の姿のようである。

佐賀城下は、別名「沈み城」と呼ばれるように、無数の水路を巡らした平地の城郭のため城下の開発には、石工や土木の職能集団としての河童族とも称された者たちの活躍があったにちがいない。

                    河童力士像

この力士のような河童像は、まだ零落した妖怪の姿となる以前の治水集団としての力自慢の姿のようにみえる。ただ楼門の屋根を支えているのは水神としての火伏せの霊験を示すものだろう。

街道の幅員は3mにも満たさず、現在では建築基準法の道路の要件にも足らず、人馬が通る時代のまま残っているため、一方通行で車両には不便ですが、ゆっくり歩いての歴史散策には丁度手ごろのようでもある。
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社日さん と田の神

田の神さまを、具体的には「社日さん」と呼ぶところが多い。長野県ではシャニチサマは、田の神様で春の社日に山から降りてきて、秋の社日に帰るといい、餅を搗いて祀ったという。

佐賀市川副町 、犬井道では、社日さんは田の神様で、田の隅に居られるのでお彼岸の前後に祀るという。

群馬県館林市には、社日神社があり、社日もうでと称して社から土や砂をもらい受け田畑に撒き入れる風習があったらしい。どうやら田の神は社日さんと呼ばれ、春分、秋分の日に最も近い戊(つちのえ)の日に祀る作神のようでした。

               社日祭2

「社」とは「土を祀るヤシロ」のことであり産土神でもある。神とは天を祀ることである(天神地祇)。また「社稷」とは土(社)と五穀(稷)の神をいう。
従って、社日は「土を祀る農神の日」のゆえに、春分、秋分に最も近い戊(ツチノエ)の日に行うものだろう。戊(つちのえ)は十干では「土の兄」であり五気では強い土気を表す。

また社日を「立春」、「立秋」後の第五番めの「戊」の日と規定する地域がある。これは、「五」という数は、五行においては土気の生数とされるからだろう。五行では「一(水)二(火)三(木)四(金)五(土)」とされ五気の働きを示す成数は、それぞれ一から五までの生数に、五をプラスした六、七、八、九、十のことである。

春の社日を「春社」といい、五穀豊穣を祈願し、秋の社日を「秋社」として収穫に感謝し祭るという。土は作神であり四時順行をつかさどるものである。

田の神は、春に降りて秋に山の神として帰られるというのは全国共通のようであり、多くは旧暦の二月(現在の三月)に里に降りるというのは一致していて、春分の日に近い戊の日(社日)に山から降りるということとも重なる。

他に、二月の八日(こと八日)に地に降りて十二月の八日に帰るという地方もあるようだ。旧暦二月は卯の月で木気の正位であり「八日」の八は木気の成数(3+5)であるから「こと八日」は「農作業こと始め」に特別の日のようだ。

この日を針供養にあてる習俗がみえるのは、木気(農事)の敵となる針(金気)を供養する(送る)日としてなのであろう。
そして田の神が山に帰るのは一般的に「神無月」である旧暦十月とするものが多い。

              田の神2

十月は「亥」の月になる。「亥の月の亥の日」や「十月十日」に亥の子祭りや「トーカンヤ」などという「地神」の祭りを行う。

亥とは「閡(とじ)る」という意味で陽の気が全くない純陰の神無月でもある。神無月とは神が居ない月であると同時に、神が甦る再生の月でもあり。この月に神々は出雲に向かうのであり出雲は、大和からみて西南の坤の地であり純陰の地で神々が再生を果たし甦る地である。ゆえに出雲では「神在り月」とされている。

田の神は、二月に里の家に降りられ、五月の田植え祭に「サオリ」として田に迎えられ、田植えが済むと「サノボリ」として再び家にあがり、田からもってきた苗をカマド神に酒や供物と共に供え早乙女や田植を手伝った人々を招いて直会を行ったようだ。

            田の神3

その後、刈上げまでの間、稲の生育を守護し、収穫の祭りを経て山に送られると考えていたのでしょう。
農事の神さまは、田の神(山の神)であり「木気」の作神のようでである。

四季において春(寅・卯・辰)は木気の季節だが、支の三合で木気は「亥」に生じ「卯」に盛んとなり「未」に送られるため、田の神さまは亥(旧暦十月)と卯(旧暦二月)をなぞって祀られる習俗が多い。

ちゃんと陰陽五行の理を踏まえた祭祀として行われたように思える。

おなり神と王権

沖縄になんども訪れたことがあり、その度に「女性が輝いているなぁ」と思うし
実際、沖縄の女性は「働き者」といわれています。

その理由がおぼろげながらわかってくると、いま本土では消えてしまった多くの伝承や文化のモデルが僅かに残っているように思う。民俗そのものはなくなっていてもカタチを変えて暮らしや行いに影響を与えているものだろう。

                楠2

そのひとつに「オナリ信仰」がある。簡単にいうと女性の姉妹は、男の兄弟にたいして「オナリ神」として守護神になる、という女性の霊力(セジ)信仰である。

例えば男性が戦に出たり、旅にでたりするとき「テサージ」という手ぬぐいのような布を贈ったりしるようだ。布には古来より魂が宿るというから当然、オナリ神のセジは込められて守護神として守ってくれるという。

沖縄で神事にはノロ(祝女)といわれる巫女の神託により行われるものですが男性の神官とノロの組み合わせは、同様にオナリ神にあたいするものだと思う。その最高位のカタチが琉球王にたいするノロの最高神である「聞得大君」の制度があったようだ。

琉球国を治めることに祭政分離の思想を持ち込み、巫女が神の神託を聴き、王が実際の政務を執行するという祭政分担の形式です。

これですぐ気づくのは所謂、魏志倭人伝にいうところの邪馬台国の統治のしかたである。
卑弥呼は鬼道をおこない、弟は政務を助けたということだ。

 古事記では景行天皇の皇子、倭建命は西国平定を命じられ伯母である倭姫命をたずね衣裳を受けている。

これらは倭国いらいの日本の国の統治権力が祭祀権と施政権とに、権威と権力が早期に分離していたことがその後の天皇制もふくめた統治のあり方に影響してきたと言えないだろうか?

倭国が隋に使者を送って答えたことに、「倭王は天を兄とし、日を弟として天まだ明けざるときに政を聴き、日出れば理務をやめ弟に委ねる・・」とある。

これは兄弟がいて国を治めていたととられているが、ここでの「兄弟」という意は必ずしも男の兄弟という意味ではなく祭政分担をしてという意味に理解するほうが分かりやすい。

易で、十干十二支では「兄弟」を「え・と」として陰陽をしめしている。甲乙を「きのえ」「きのと」という。

初の女性天皇の推古朝に摂政として聖徳太子が登場してくるのは、自然なことで、これは男女という組み合わせをこえて祭祀権と施政権との組み合わせと考えると、太政天皇と天皇、または天皇と皇太子という組み合わせの時代もありえたのではないかとも思う。

またこのことが永いあいだの武士政権を通じても天皇の地位が失われなかった希なる力でもあったと思う。
今の憲法下での象徴天皇制も同じ構図といえなくはないだろう。

沖縄は日本の古文化の故里である。多くの民俗学の研究者が当地を訪ねたのもそのためであろう。
これからも是非「沖縄の女性」には輝きをもって日本の「オナリ神」として活躍してもらいたい。

ひな祭りの気候

全国の旧城下町などでは、早から観光向けの雛祭が開催されています。

この場合は新暦での3月3日の「ひな祭り」を行うことを前提としているからだと思う。

しかし、ひな祭りは、五節供(1月7日の人日、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽)の中のひとつで、本来は、旧暦の3月の最初の「巳の日」に行われていたものを3月3日に行うようになったという。

したがって、現在の暦では、旧暦での開催より、凡そ1ヶ月くらい早いため、桜や桃の花が開花するかなり前となり、梅の花の
季節となってしまいます。

ひな祭り


「ひな祭」は、「桃の節供」といわれ、女の子の節供ですが新暦で行うと気候的には不都合が生じますが、それでも「3月3日」という新暦での「数」を優先したために生じた気候のズレです。

今の暦は、「明治五年十二月三日を、明治六年一月一日と定める」と、改暦を行ったことから生じたものだ。

雛祭は、同時に「磯遊び」や「浜降り」などのように、また宮中では「曲水の宴」など、水と親しむ催事が多いため、なお更、新暦での催しとすると、この水ぬるむ季節の伝統との違和感が出ています。

節供は、身の穢れを祓うものであり、その方法は、紙や木でこしらえた雛形や人形(ひとかた)に、身体に憑いたケガレを写しとり、川や海に流し浄化をする「流し雛」の呪願が行われていたものが本来の形式でした。

流し雛


現在のような流し雛から、華やかな「飾り雛」にかわったのは江戸時代のころのようです。

雛形を川に流すことをやめるかわりに、三月三日日を過ぎると直ぐに片付け、また一年間閉まっておくことになった。

「雛飾りを片付けるのが遅れると、婚期が遅れる」といって戒めたのは、穢れを祓い水に流すのが本来のカタチだった
名残として残っているものと思う。

人形(ひとかた)の呪術としては、いまでも紙に印刷された人形に自分の病の部位の名前を書き神社などで払いの祈願をおこなってもらい快癒をねがう神事としては今でも夏越しなどの神事に残っている。

「磯あそび」「浜降り」は、ちょうど水ぬるむ「潮干狩り」の季節でもあり、水により禊払いを行う時節と合致していたにちがいない。

宮中では「曲水の宴」として―――庭園に小川を設え、盃をながしそれが到達する間に歌を詠む―――という古代中国
から伝わった宮中文化がある。

曲水の宴


旧暦の3月は「辰月」であり、易の卦では「沢天快」といい、上が水、下が天をあらわし、水の本性は潤下であり
下へ下へと流れていくことを意味し天と水の陰陽交合により農作物が成長するという「卦」となる。
そのため、水に親しみ、穢れを祓う禊ぎの神事として伝わったものと考える。

辰月の巳の日の「上巳の節供」は、ちょうど冬眠から醒めた蛇が脱皮をすることにより新しい生命を更新する辰巳の季節に、わたしたちの魂の更新のための禊ぎの儀式として流し雛から、飾り雛としての女の子の長久を祝う「ひな祭り」として定着したものでしょう。

ただ、本来が太陰太陽暦での3月(新暦では4月頃)だったために、今では飾り雛の華やかさだけが伝えられて、伝統の
文化とは、季節感が外れたことは残念な気がします。

恵方の決め方

「今年の恵方は、どっちなの?」 と訊かれることがある。
恵方は「兄方」ともあらわすように、十干(甲乙丙丁戊己庚申壬癸)のうちの「兄・え(陽干)」のことです。

十干は、五行の「木火土金水」と結びついて、木(甲乙)、火(丙丁)、土(戊己)、金(庚辛)、水(壬癸)となり、それぞれ「木の兄・木の弟」「火の兄・火の弟」「土の兄・土の弟」「金の兄・金の弟」「水の兄・水の弟」となります。

十干のうちの「兄・え」は陽干、「弟・と」は陰干となり、恵方とは「兄方」のことですから陽干の方位のことになる。

干支(えと)は、干支(かんし)とも読みますが「十干」と「十二支」の結合のことで「十干(天)と十二支(地)(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)との60通りの組み合わせのことです。

                 恵方巻

十二支の方位を決めるのは、木星(歳星)が12年で天を一周することからですが、反時計回りのために便宜上、時計回りに対応する「架空の星(木星の神霊)」=「太歳」により、十二方位支を示す。平成27年の干支は「乙未(きのとひつじ)」ですから「太歳(十二支)」の方位は「未(南南西)」の方位となります。

太歳は「歳」の字を用いるため「歳徳神」と混同する人も多いのですが別の所に居ます。
「歳徳」はアキノカタとも「恵方」ともいい「その年の万物生ずるところの徳(吉方)の方位」のことである。十二支ではなく「十干」のうちの陽干(兄方)【甲丙戊庚壬】により決定される。

但し、戊(ツチノエ)は「中央」のため方位を差さないため土気の生ずる祖(おや)である火の兄(丙)の方位としています。

従って、陰干【乙丁己辛癸】の年の場合は、「干合」する相手の陽干(兄方)の方位となります。
【徳を与えるものは専らであり、はそれを受けとるもの】という「陰陽の法則」によるとされる為です。

干合は、【甲乙丙丁戊】と【己庚辛壬癸】がそれぞれに対応し、陰干の年はその相手方となる陽干の方位が恵方となる。
                        
例えば、2021年の辛(かのと)の年は相手は、庚(かのえ)ではなく「丙(ひのえ)」の方位で申と酉の間になる(重要)、これは、「五行相剋」を避けるために「陰干を剋す相手の陽干の妻」となり「陽干従う」という意味のようです。

辛(かのと)の場合は金の弟(と)で、陰干のため金気が避けなければならないのは「火剋金」の火気(丙・丁)であり、その陽干は丙(火の兄)ですから、辛の年の恵方は丙(火のえ)は南南東で午(南)の東寄りになります(図参照)。

                吉凶図3

昨年は庚(かのえ子)であったため、「庚」は陽干のためそのまま「庚(きのえ)」となり、酉(西)のやや南よりの西南西が歳徳神の在する方位でした(図を参照)。


恵方巻きを食べる風習は、立春の前日の「節分」の行事であることから春(木気)としての「歳神」を迎える「迎春の行事」であり本質は節分の祭と共通にちがいない。

七種の具材を巻いた恵方巻きをその年の吉方位である「恵方」の方角を向いてカブリつくのは歳徳の御利益を得るためであろう。七は五行では火気の成数であり「火」は春の木気の敵である金気を剋殺する働きによる迎春(木気を迎える)の備えとするものである。

太巻きを切らずに丸かじりするのは「切る」というのは迎春(木)では忌み言葉にあたるためのようだ。

同時に七種の具(火)を口に頬張ることは「火生土」で土気である人の年魂を更新する「魂振り」ともなり、無言で食べないと効果がないというのは、言は五行では金気に配されているため言(金気)を慎んで木気の歳徳を助ける意味に違いない。
恵方巻きはその年の歳徳(トシトク)に向かい神人共食の祈願だったようだ。
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