FC2ブログ

牛頭天皇と祗園祭

祗園の祭神、牛頭天皇はもともと信望の厚いチベットの王でしたが后にめぐまれなかったという。

あるとき天の瑠璃鳥に「南海の竜宮に波利采女という美しい娘がいる」ということを告げられた。
牛頭天皇は南海の竜宮に向かう途中で、馬を休めるために夜叉国の国王「巨旦将来」に宿を求めたが
酷く罵倒をされて、止む無く路を進んでいくと松葉拾いをしている巨旦王の奴隷女に会い・・巨旦の弟に
「蘇民将来、というものがいるので宿を求めるといい」と聞いた。

すると、言葉どうり一行は蘇民将来に歓待され、念願かなって妻を得た牛頭天皇は八人の王子をもうけた。

そして後に、牛頭天皇が八人の王子と共に、巨旦を滅ぼそうと夜叉国を攻めた際、松林の奴隷女を思いだし
桃の木からつくった「救急如律令」という護符を与えて助け、巨旦を五つに切断したという。

夜叉国を滅ぼし「蘇民将来」に与えると、牛頭天皇は「自分は後には疫病の神になる」と宣言し、後の世にもし
疫病が流行る場合は、八王子やその眷属の仕業であるから、疫病や災いから身を護るには自らを「蘇民将来の
子孫」と名乗れといい残した。

それいらい「私は蘇民将来の子孫」という護符を家に掲げる風習が流行ったのだという。

                   蘇民将来2

さらに牛頭天皇は、滅ぼした巨旦将来の悪霊調伏の方法として切断した遺体を五節供として祀ることを教え、
これが五節供の由来となったという。

1月1日に供える鏡餅は、巨旦の骨と肉、3月3日の蓬餅は皮膚、5月5日の菖蒲は髪と髭、7月7日に食べる素麺は
巨旦の筋をあらわし、9月9日の菊酒は血を意味したらしい・・・

では、牛頭天皇とスサノウの習合はどうしておきたかといえば、韓国語で「牛頭」とは「ソシモリ」といい、
悪行を働き天から追放されたスサノウは牛頭山(ソシモリ)に住んでいたが、嫌になり泥舟で日本に渡ったという。

そのことから牛頭天皇とスサノウ、波利采女とクシナダヒメ、八王子とヤガシラノミコトが習合し八坂神社に
祀られたという。

牛頭天皇はお釈迦様が修行する祗園精舎の護り神とされたため、夏の御霊会を「祗園祭」として疫病、悪霊を
封じる祭りとして全国の八坂神社に広がったものだという。

疫病と暑気祓い、夏の終わりの季節の順行、転換を祈る祭りとして土気(牛は土気)と火を剋す水の祭りと
して、締め込みの若衆に水をかけ、或いは土気の代表である稚児が先導する山車を曳くのであろうか?

このようにして祗園蔡は、神仏習合の祭りとなったように思える。
スポンサーサイト

祭の手ぬぐい

夏の祭りタケナワの季節ですが、欠かせないのが装束としての「手ぬぐい」のようです。
手ぬぐいは、字のごとく手を拭うための布、いわばハンカチの日本版くらいの認識となり、日常の生活ではすっかり姿を消し、手拭や顔拭きにはタオルに替わられたようす。

ところが、コトが伝統芸能や祭りの場面になると、どういう訳か「手ぬぐい」の出番だ。

手ぬぐいが、非日常の場面に押しやられていますが、郷土の祭りや町興しでは俄然、元気を取り戻し、その種類や色柄も千差万別の様相です。そのため「手ぬぐい」が、その名のように手を拭うための用途として登場したものではないことがわかります。

てぬぐい

今日では多様な絵柄が見られ、手を拭うだけでなく、インテリアグッズとしての用途にも広がったようだ。

布としての手ぬぐいが色もの柄ものとして染色されて用いられたのは江戸時代に入ってからのようです。
理由は、白い手ぬぐいは神に仕える神聖なモノザネとして、犯してはならないものという背景があったからです。

神に仕えた京都大原の桂女は白い手ぬぐいを巻き、戦国の武将は兜の下に白い布を巻いて武運を願いました。
また、沖縄地方ではテサージという布を魔除けとして男性に贈るオナリ神信仰もありました。

このようなことから、「手ぬぐい」が庶民の間に広まり、手ふきや湯浴みのときに用いられるようになっても、
未だに、どこか神聖なる依代としての思いが残っていたものでしょう。

かまわぬ


今でも、祝い事には日本酒などと並び、手ぬぐいが配られることが多いのもそのような由のようです。
手ぬぐいの呼称には手巾(タノコイ)の他に「ユテ」等というところも多かったようで、一般にはユテ(湯手)などを当て「湯手ぬぐい」の略称とするようですが、どうも本来の趣旨からすると斎手(ゆて)または木綿手のほうが性質を表してる気がします。

古代より布や領巾(ヒレ)に、神霊の依り代としての信仰は、佐用姫伝説などにも多くみられるためです。
そのような由来を引くと、今でも「手ぬぐい」が祭りの場に登場してくる理由となるのでしょう。

ただ祭礼用の白いてぬぐいではなく、豆絞りや柄ものが江戸歌舞伎の「粋」の影響を経て用いられるに至ったものかと考えます。

祭り手ぬぐいをキリッと締めた姿は今日でも神々しい力を与える理由なのでしょう。

田植え前の春籠り

田植えが現在のように機械化される以前で、多くの人手に頼っていた時代において、佐賀地方の農村では、田植え前に「おんだ様」や「春篭り」「おんだよいあ(寄合)」などと称して弁財天や地蔵さんに「籠もる」風習があったようです。

地区の人々が集まって飲食を共にするものであり、これから始まる田植えに備えて農事の無事を祈願し結束を確かめ合うこ意味もあったようだ。

              田植え2
           
旧藩時代から山内と呼ばれていた背振村や三瀬村などでは、田植えが始まる前の数日間を休んで、当番を決めて神社などに集まって飲食をして「お籠もり」をしたという。「オイタチ」とか「オイタチヤスミ」とも云った。

「春籠り」は、田植えというハレの祭りの前に精進潔斎をして「忌み籠もり」をするものだといわれています。 田の神が訪れるのは一般に夜間のために、神社の拝殿や社務所などに籠もって夜を明かすのだという。

祭りとは「神祭り」のことであり、禊ぎ祓いをして神を迎え供物を奉じて祀り、その後 神人共食(直会)を行い五穀の豊穣を願うものです。

忌み籠もりは「イ(斎)みごもる」ことで田の神の神霊を憑依、懐妊するという神降ろしのことであり拝殿は穂倉であり実の籠もる母体と見立てたのでしょうか。

             川上神社

春籠もりの時期は、田植えの始まる頃ですから、四月から五月と一定の幅があるようですが、弁才天などに参拝していた様子から、旧暦の四月(巳の月)の頃のようでした。

山岳信仰のある背振山に鎮座する「背振神社」は日本の六所弁才天といわれていますが、弁才天は本地インドでヒンズー教の河川の神、サラスバティとされていた。

弁才天の元の姿は八臂(八本の腕)の姿で弓や刀の武器をもつ戦闘神で仏法の守護神の像容でしたが、後世に二臂に琵琶を抱えた艶姿となり、妙なる音により衆生を悦ばす神「妙音天」として芸能の神さまとされた。

易に於いては弁(辯)とは口であり、兌であり沢であるため五行で金気、白、西を示すことから、弁才天が弁財天となり財(金運)をもたらす福神として「七福神」の紅一点として崇められてきました。

             弁財天

また榖神であり、蛇神である宇賀神は、弁財天の子とされていますから、白蛇をウカの神と習合し竜神として共に祀られることが多くなっています。
ウカ、またはカは蛇の古語だったといわれる。

鳥栖市立石地区では、四月の巳の日に弁才天から土をもらってきて地区の弁才天の祠に供え、その夜は公民館などで春籠もりをしたといいます。
また千代田町の辺りでは田植えの前の「酉の日」に集まって飲み食いをしたともある。

巳は、蛇の象形であり古くは「カミ」であり、水神であり、支の三合では「巳酉丑」は金気を表すため金気は五行相生で「金生水」の理により水の祖となる。また巳は申と支合すると「水」を表すため、巳も酉も水神の祀りと深く関わったようだ。

祠とは穂倉であり、榖霊の再生する穴であることから、田植えの前に産土神に籠もって田の神を身籠ってハレの神事を迎える行いが「春籠り」の風習に込められた深層ではないかと思う。

社日さん と田の神

田の神さまを、具体的には「社日さん」と呼ぶところが多い。長野県ではシャニチサマは、田の神様で春の社日に山から降りてきて、秋の社日に帰るといい、餅を搗いて祀ったという。

佐賀市川副町 、犬井道では、社日さんは田の神様で、田の隅に居られるのでお彼岸の前後に祀るという。

群馬県館林市には、社日神社があり、社日もうでと称して社から土や砂をもらい受け田畑に撒き入れる風習があったらしい。どうやら田の神は社日さんと呼ばれ、春分、秋分の日に最も近い戊(つちのえ)の日に祀る作神のようでした。

               社日祭2

「社」とは「土を祀るヤシロ」のことであり産土神でもある。神とは天を祀ることである(天神地祇)。また「社稷」とは土(社)と五穀(稷)の神をいう。
従って、社日は「土を祀る農神の日」のゆえに、春分、秋分に最も近い戊(ツチノエ)の日に行うものだろう。戊(つちのえ)は十干では「土の兄」であり五気では強い土気を表す。

また社日を「立春」、「立秋」後の第五番めの「戊」の日と規定する地域がある。これは、「五」という数は、五行においては土気の生数とされるからだろう。五行では「一(水)二(火)三(木)四(金)五(土)」とされ五気の働きを示す成数は、それぞれ一から五までの生数に、五をプラスした六、七、八、九、十のことである。

春の社日を「春社」といい、五穀豊穣を祈願し、秋の社日を「秋社」として収穫に感謝し祭るという。土は作神であり四時順行をつかさどるものである。

田の神は、春に降りて秋に山の神として帰られるというのは全国共通のようであり、多くは旧暦の二月(現在の三月)に里に降りるというのは一致していて、春分の日に近い戊の日(社日)に山から降りるということとも重なる。

他に、二月の八日(こと八日)に地に降りて十二月の八日に帰るという地方もあるようだ。旧暦二月は卯の月で木気の正位であり「八日」の八は木気の成数(3+5)であるから「こと八日」は「農作業こと始め」に特別の日のようだ。

この日を針供養にあてる習俗がみえるのは、木気(農事)の敵となる針(金気)を供養する(送る)日としてなのであろう。
そして田の神が山に帰るのは一般的に「神無月」である旧暦十月とするものが多い。

              田の神2

十月は「亥」の月になる。「亥の月の亥の日」や「十月十日」に亥の子祭りや「トーカンヤ」などという「地神」の祭りを行う。

亥とは「閡(とじ)る」という意味で陽の気が全くない純陰の神無月でもある。神無月とは神が居ない月であると同時に、神が甦る再生の月でもあり。この月に神々は出雲に向かうのであり出雲は、大和からみて西南の坤の地であり純陰の地で神々が再生を果たし甦る地である。ゆえに出雲では「神在り月」とされている。

田の神は、二月に里の家に降りられ、五月の田植え祭に「サオリ」として田に迎えられ、田植えが済むと「サノボリ」として再び家にあがり、田からもってきた苗をカマド神に酒や供物と共に供え早乙女や田植を手伝った人々を招いて直会を行ったようだ。

            田の神3

その後、刈上げまでの間、稲の生育を守護し、収穫の祭りを経て山に送られると考えていたのでしょう。
農事の神さまは、田の神(山の神)であり「木気」の作神のようでである。

四季において春(寅・卯・辰)は木気の季節だが、支の三合で木気は「亥」に生じ「卯」に盛んとなり「未」に送られるため、田の神さまは亥(旧暦十月)と卯(旧暦二月)をなぞって祀られる習俗が多い。

ちゃんと陰陽五行の理を踏まえた祭祀として行われたように思える。

鮒(ふな)市と恵比須

「さあ、いらっしゃい いらっしゃい」
まだ夜も明けない暁更5時頃から、活きた鮒を入れた箱を挟んで近隣より集まった客と鮒市の売り子が値を交渉し合っている。

「鮒市」は、二十日正月に出す料理「ふなんこぐい」の材料の「鮒(ふな)」を買うために、前日の1月19日に佐賀県鹿島市で開催される朝市のことで、300年以上も続く伝統行事だ。

「ふなんこぐい」は、鮒(ふな)を丸ごと昆布巻きにし、野菜等と一緒に煮込む郷土料理で、時間をかけて煮込むために、味が浸み込み骨まで食べやすくなり、出来上がった料理は、恵比寿や大黒さんに供えて商売繁盛や無病息災を祈願するという。

                 鮒市2


同様の風儀には、近畿地方で正月に食べた「鰤(ぶり)の骨」を20日間、酒粕の中に入れ、牛蒡・大根等と一緒に煮て食べる事から「骨正月」ともいわれるものがある。野菜と一緒に煮て食べ、お節料理の食べ納め、正月の「祝い納め」とした。

正月にお迎えし「もてなし」を受けた歳神さまをはじめ、万の神々が、それぞれ御帰りになるため、1月20日には正月の飾り物など全て片付けて、正月行事の締め括りの日と謂われていた。

                  具足
                  
神々に供えた鏡餅を下ろし鏡開きを行ったのは、江戸時代に幕府が十一日に「具足(ぐそく)開き」を行うようになるまで、この「二十日正月(骨正月)」が古風の習わしだったという。

そうすると此の「二十日正月」に「恵比須神」を祭るのは、旧暦十月「神無月」の際の「恵比須祭」と同様に「留守神」としての恵比須神を祭る意味ではないだろうか?

二十日正月は、「二十日恵比須」と重なって本来は「鯛(たい)」を供えるべきところを有明海のこの地域では「鯛」がそれ程は獲れず高価だったため、カタチの似た鮒(ふな)を鯛(たい)の代用として用いたと謂われている。

煮込んで骨までいただくのは「骨正月」というお祝い納めの伝統を継ぐものに違いない。または作神(木気)を迎えるために、その邪魔となる金気(骨)をしっかり噛み砕いて食べることで冬を送り、春を迎えるためと考えられる。

                     夷まわし

恵比須と大黒が登場するのは、今宮の戎廻しが本来、対の二神であったために、夷三郎を事代主(蛭子との説も)としたことから、もう一柱の大黒様が加えられたものに違いない。

個人的には、大国主と協力して建国を助ける常世からの来訪神「少彦名(スクナヒコナ)」との組み合わせの方が合理的な気がする。少彦名は、「吾は是汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)也」と答えているからだ。

「ふなんこぐい」の通称は、「鮒の(煮)凝り」の「ふなんにこごり」が訛ったものといわれている。
正月の神々を送り、田の神を迎えるために同じ「木気」の作神である「恵比須神」を祀り、豊作を祈願するものだろう。

                     ふなんこぐい」

「鮒」は鯛の代用との説も、実は「鮒」という字が「餌に喰いつきやすい魚」という豊漁のイメージするなら「鮒」が予祝のモノザネだったとも考えられて、ここに「ふなんこぐい」と「恵比寿」が符合する機縁があったといえる。

寒風のなか、威勢のいい「鮒市」の呼び声を聞くと、強かな漁師たちの息吹が伝わって来る。
プロフィール

jyoumonjn                                      K.やまだ       in SAGA 

Author:jyoumonjn        K.やまだ in SAGA 
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新トラックバック
月別アーカイブ
月別アーカイブ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ポインタ・スイッチ




最新記事
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR