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成富兵庫と治水

藤沢周平の時代劇ドラマ【蝉しぐれ】の冒頭の部分で主人公、文四郎が普請組をつとめる父の助左衛門の代わりに大雨による洪水から村を護るために駆けつけるシーンがある。

蛇行する川の氾濫、出水を防止するために、決壊させてはならない流域より上流の堤を、人足の動員により堤を切って勢いを増す濁流を原野に放水する作業である。

現代なら、河川の近くまで宅地化が進んでいるため、堤防を高く築き土嚢を積み堤防の決壊を防ぐ工法が主流のはずですが、中世から近代までは増水する水を特定の箇所を破壊させ逃してやる減勢工法でした。

              のり摘み2
                
まるで江戸の火消しが延焼を防ぐため、燃えていない周囲の建物を壊すことにより防いだ様にも似ています。火も水も同じように荒っぽくも見える方法ですが当時の方法としては他の選択を許さない手段でした。

治水に戻しますが、当時は治水工法として河川を直線状に変え強固な堤を高く築き水を速やかに流す「紀州流」と河道の付け替えや河川の蛇行を利用し、一部を越流させてゆっくり流す「関東流」などが河川の形状により行われていた。

佐賀に於いては北部に標高千メートル級の山を有し急峻ですが、下流域は潮の干満差が大きい有明湾へ注ぐ低地が6割くらいを占めているため、穀倉地帯の平野部は排水条件も悪く氾濫をくり返していた。

そこで、「紀州流」の工法は難しいため、河川の付け替えや乗り越し堤、遊水地への誘導など流量の減勢が工法となったようです。

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佐賀藩の治水の神様と謳われる成富兵庫茂安という武将は「徳川の世になりこれまでのように戦で領地を広めることはできないため、自ら耕地を開墾し治水により農業生産力を拡大していく他ない」と藩主に進言をして茫漠とした荒地や氾濫する湿地を耕地として開墾するため多くの治水普請を成功させています。

代表的なものには、筑後川の氾濫から耕作地をまもるため12年の歳月をかけた「千栗の土居」、水不足になりがちな神崎地区の用水を確保するための「蛤水道」など大工事を成功させて領民の生産力向上に貢献している。そのため、成富兵庫茂安の名から命名した町が兵庫町や北茂安町などとして今でも残っています。

 成富兵庫茂安は、普請方ではなく初代鍋島藩主、直茂の重臣として活躍した根っからの武将。
戦乱期の戦に幼少時より加わった傑物で、藩主の信望もあり直茂より「茂安」の名を頂いたといわれるように、上記のような新田開発の進言をできる立場であったようだ。

上記の他にも代表的な取水堰に嘉瀬川から取水をする石井樋があり多布施川として水運のほか城下への生活・農業用水の取水と佐賀城下の堀を満たす防御濠の水となり佐賀江川を通り有明海に注いでいます。

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成富兵庫の方法は、「野越」という方法で、水量が増勢すると予定した乗り越し堤より水流が越水して遊水地に流れこみ下流への増水氾濫を抑えるというものでした。
当然、越水する部分は決壊とは異なるため堅固にこしらえてあり流量を制御できるものです。

また越えた水は大きな流木や石が農地に入りこまないように水防の竹林を植えて防ぎ、滋養豊富な水のみが灌漑用の遊水地や周辺農地に流れるために、増収に寄与するようできていました。

またこのような防災農地の一定の部分は検見(役人が作柄を検査すること)による年貢減免(破免)にしたため農民がそこからの収穫があれば潤うように配慮していたようです。

ダムのない時代に自然を征服するのではなく自然の変様に対応する工法のようでした。
水の力に逆らわず利用することで耕地の生産力をあげる治水と利水をセットとして考えていたようです。

ダムの撤去というあらたな河川環境の回復へ踏み出した自治体もあるように、もう一度河川環境と中世の水との関わり方を見直してみる必要があると思う。
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山川異域 風月同天

鑑真は743年55歳のとき、唐を訪れた留学僧・栄叡、普照より、朝廷からの「伝戒の師」としての招きを受け、渡日を決意したが、その後の10年間に5回もの渡航の失敗と視力の喪失を伴い、天平勝宝5年(753)、6回目の65歳での挑戦で漸く12月20日、薩摩の坊ノ津に辿りつき、有明海を北上し、佐賀の嘉瀬津の港に上陸した。

12月26日は大宰府で初めての授戒も行ってのちに平城京へ到着したとされる。

                薩摩坊の津

翌754年には東大寺に日本初の戒壇を設け、76歳までの10年間のうち5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺にて過ごし、天皇を始め多くの人々に授戒をされたようです。

鑑真上陸の地は鹿児島と佐賀にそれぞれ記念碑があるが、鹿児島の坊ノ津に寄港しながらも目的地に向けて北上し佐賀の嘉瀬津に上陸し陸路、大宰府へ向かったとみるのが自然に思う。

上陸記念碑は佐賀県、嘉瀬町の森林公園内に建立され、傍には誕生の地、揚州市より贈られた瓊花(けいか)が植えられている。

                鑑真上陸記念碑

なお、皇帝の反対を押し切ってまで日本に渡った理由については、いろいろな説が言われているが、『唐大和上東征伝』には、鑑真が来日するきっかけになった注目すべきエピソードを伝えている。

鑑真が来日を請われたとき、次のようなあの長屋王との経緯を述べたという。

「聞くならく、日本国の長屋王、仏法を崇敬し、千の袈裟を造り来り、この国の大徳衆僧に施す。その袈裟の縁の上に四句を繍着していわく『山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁』此をもって思量するに、誠にこれ仏法興隆し有縁の国なりと…」 鑑真は心を揺さぶられ、日本行きを決意したのだったが……

苦難の末にも来日を果たしたとき、長屋王はすでに藤原氏の陰謀により謀反の罪で自害させられていた。

                 鑑真3

鑑真と朝廷の蜜月も長くは続かず、鑑真は正しい仏法を伝え多くの僧を輩出するつもりだったが、朝廷のホンネは税金逃れの出家である私度僧を減らすことで、両者の思惑は対立し、758年、鑑真は大僧都を解任され東大寺を追われ、そのご熱心な信者からの寄進をえて唐招提寺を建立したという。

江戸の金融

大名貸 
三井高房の「町人考見録」享保 13 (1728) 年は、巨額の借銀を踏み倒した大名家を、薩摩島津、肥後細川、肥前佐賀鍋島、筑後柳川立花、筑前福岡黒田、長州毛利、阿波蜂須賀、越前松平、尾張・紀伊徳川、奥州松平、米沢上杉、仙台伊達、盛岡南部、等々、名立たる大名をあげています。

  大名

大名は、参勤交代に伴う旅費・在府の費(ついえ)、幕府から「手伝普請」の要請など、莫大な金銀を必要とし、年貢米を担保に京都の銀主と交渉する借銀奉行をおいて銀策を続けました。

財政が苦しい中、借銀が嵩(かさ)んで・・・終いに貸し倒れを起こし没落した商家は48家もあったといわれます。
従って、三井家の家訓には、理屈に合わない大名貸しは原則禁止とし戒めていました。

大名の中には、返済の仕組みが立たずに古借に高い歩合の増銀を加えた借換證文に応ずるなど、財政は火の車で、返済を100年賦~1000年賦とする到底返済不能の證文まで交わされたという。

両替商


佐賀藩も、京都の銀主、八文字屋に、一万貫(20万両)の借銀があり、年に千貫(2万両)の利息を払い・・・ついには、二千貫を踏み倒し八文字屋は潰れたと云われる。
・・・・・「金銀を貯え悪事を働くものはいるが、借銀が多くて家を潰した大名はいない。子銭家(金融業者)への借銀は、さしたる大事ではない」と、言い放つ家老もいたが、諸大名の借銀への意識は似たようなものだったに違いない。

災異と飢饉
享保の飢饉、1732年、西日本を襲った大飢饉。佐賀藩においても、「冷夏により蟊賊(ぼうぞく)(稲などを食べる根切虫)生じ、災害が広がり8万人の餓死者、牛馬の斃死9万頭あり」と伝えられるほど深刻な状態でした。

天保元年(1830年)の藩の収入をみると、石高は12%にしか届かず、借銀に73%も依存する途方もない財政難でした。
支出を見ても、凡そ半分は借銀の返済に回される、とても窮屈なものだ。――― 但、これは佐賀藩に特異なものではなく、諸大名とも似たようなものだった。

  飢饉

米沢藩は、宝永3年(1706)、幕府から上野東叡山修繕が命ぜられ、豪商、富農には「士分取立て」と引き換えに、追加融資を頼み漸く手伝い普請を済ませ、反面、江戸屋敷の雨漏りも修繕できず屋内で傘をさす状況だった。享保18年(1733)の江戸城の堀の浚渫(しゅんせつ)では人別銭や家臣の半知借上げまで行ったという。

佐賀藩においても、家臣からの「切り地(献米を取ること)」を引き当て借銀の工面に充てるなど、安永4年(1775)には、ついに「人別銀(人頭税)」が実施されることになる。

安永3(1774)年、役料、飯米の不支給により役人の辞意の申し出や、安永8年、支藩の蓮池藩や小城藩の「上支配願(本藩へ知行の返上)」まで出される始末でした。

凶作による飢饉対策として「すくみ米(一石あたり籾一升を上納米より除き所蔵すること)」を許可し、旅陶器(他国産の陶器)の停止、薬、鋳物の国産の奨励など、藩内の換金力を高める施策を行う。

札差
諸大名に限らず、江戸幕府の蔵米(切米)支給の旗本、御家人においても、禄米を受け取り換金する札差から、向こう数年分までの収入を担保に借銀を重ねる状態となり、
追加借り入れが困難となり、札差との借入交渉を行う蔵宿師(くらやどし)まで使って資金繰りをする困窮状態でした。

札差


旗本・御家人の禄米を受取り換金して得る手数料が札差料だったが、次第に、旗本や御家人に蔵米を担保にして金を用立てる金融業務が中心となる。
困った武士は、自分の蔵宿である札差に、支給される蔵米の受領・売却を委任し借金をします。札差は蔵米の支給日に、米を売却した現金から手数料と借金の元利を差引き、残りを届けます。札差はこうした札旦那を何人も持つことで大きな力を持ちました。

蔵米の支給は、通例、2月と5月に4分の1ずつ、10月に残りの全部を渡すのを決まりとし、この2月、5月の分を春借米、夏借米と称し、10月の分を冬切米と呼んだ。

棄捐令2

棄捐令
幕府は、困窮に陥った旗本・御家人を見かね、救済のために、債権者である札差に対し、債権放棄・債務繰延べを求める棄捐令を発布した。
これにより札差は120万両にのぼる巨額の貸付が棒引きにされて、旗本、御家人は、ひと息つきましたが、金融業者である札差の損失は莫大となり、その後、消費、賑わいが失われ、新たな資金供給には慎重な姿勢となり旗本、御家人にとっては一時の凌ぎに過ぎませんでした。

幕府も、財政を乗り切るために、新田開発や米価維持のために、江戸への廻米の制限をして米価の維持に努め、享保7年には「上げ米の制」といわれる、大名に対して”石高1万石に対して100石の米を納めさせる”など財政の回復に取り組んだが、すでに幕藩体制は、金融経済の大きな渦に呑みこまれ、何度も救済策を出すほどに、自らの政策によって徐々に基盤は脆弱となっていきました。

ラストサムライ

武士(もののふ)逹は、古武道の魂である刀と弓、槍をもって、騎馬による最期の突撃を試み、近代軍備と交戦するも、政府軍の連発式銃ガトリング砲により斃され、オールグレンと勝元を除き反乱軍は壮絶な戦死を遂げる。
深傷を負った勝元は、オールグレンに止めを刺すよう乞うと、背後の桜を見ながら、息絶えた。洋式軍の兵士たちもサムライの見事な死に様に落涙し、跪(ひざまず)いて頭(こうべ)を垂れ、武士の最敬礼をつくした。

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泰平の時の中で、失われていた「武士道」が軍人たちに甦った瞬間だった。—――ラストサムライは、維新初期の日本を舞台に、時代に抗った「侍」の生き様を描いた映画、モデルは、神風連の乱と西南戦争と云われている。

【新政府の政策】
明治2年版籍奉還
明治4年廃藩置県
明治6年地租改正
明治9年帯刀禁止令(3月)
明治9年秩禄処分(8.月)
明治9年神風連の乱(10月)
明治10年西南戦争(2月~)

中央集権化の財源確保のため、禄制改革が迫られていた。更には、武士階級の身分特権は、軍制改革においても障害だった。
版籍奉還が実行され、旧武士階級は士族と改められ、家禄は政府から支給される形となる。旧藩主は領地の石高の一割を家禄として支給され、東京に華族として迎えられたのでした。
大名はどこも財政逼迫の有り様にくわえ、戊辰戦争での戦費も嵩み、この藩債処分は渡りに舟でしたが、戊辰戦争に至るまで、命を賭して戦い得た果実は、武士とっては「魂を無惨に砕かれるもの」でした。・・・既に、戊辰の戦争には、以下のように刀槍の隊は無用との沙汰が出されていた。

【慶応4年2月6日、征東諸藩宛、新政府海陸軍務局沙汰書】
・ 銃隊、砲隊の外用捨の事
・ 隊長・司令・輜重掛等、実地用務の外、冗官用捨の事
・ 無用の衣類・雑具類持参用捨の事
――― 要は、銃砲隊以外の旧式のサムライの軍は不要(用捨)の通知だった。

                侍


神風連は、新政府の急速な欧化策を「国柄を危うくする」と憂い、明治九年、廃刀令に抗して挙兵し、熊本鎮台と軍官要人を襲った。然し、近代兵器の前に一夜にして敗れ、123人が戦死・自決。彼らは、日本刀や槍のみで戦い・・・敗れたのでした。

神風連の烈士を祀る桜山神社に、昭和41年夏、ある男が訪れた。ノーベル文学賞候補と云われた男は、神風連の乱に、強い関心を持っていた。最後の長編「豊饒の海」の第2巻、「奔馬」の取材に訪れた。政財界や華族の腐敗を憤り仲間とともに”剣で国を浄化しよう”と考えた青年を描いた作品――― 熊本で起きた「神風連」に傾倒し・・・ラストは男の未来を予言するかのような壮烈な切腹を遂げるもの。

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【昭和45年11月25日 陸上自衛隊市ケ谷駐屯地】
「日本刀」で戦う意義を説き、「命を賭けて斬り死にする、その行動のみがあとに続く者を作るのだ」として、自らは安全な場所に居てボタン一つで大量殺戮を行う近代兵器を反駁した。
三島は神風連の精神に近づこうと、マイクを使わず、肉声により陸上自衛隊市ケ谷駐屯地のバルコニーから檄を飛ばした。
ヤジの中、集合した自衛官たちに向かい、白い手袋の拳を振り上げて演説を始めた。「健軍の本義に立ち返れ!」と決起を促す演説。

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予想を越えた怒号にヘリコプターの騒音で、演説は予定時間よりも短く切り上げることになり・・・
森田と共に総監室に戻った三島は、「20分くらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」と呟く。総監の前に立つと、「総監には、恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」と話しかけると、制服のボタンを外し、正座して短刀を両手にした。
血で、「武」と書くことになっていたため、小賀は色紙を差し出したが・・・三島は、「もう、いいよ」と淋しく笑い、腕の高級腕時計をはずすと、「小賀、これをお前にやるよ」と渡すと・・・・

次の一瞬、両手で左脇腹に短刀を突き立て、右へ真一文字に、「侍の作法」どおり切腹を遂げた。

――― 散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐

龍馬暗殺5日前


坂本龍馬が慶応3(1867)年、11月15日京都、近江屋にて襲撃され斃れる事件のわずか5日前に、福井藩重臣へ宛てた直筆の手紙が発見されました。

その封紙には、以下のように記されています・・・・・
朱書で、「坂本先生遭難直前之書状に而他見ヲ憚ルモノ也 (さかもとせんせいそうなんちょくぜんのしょじょうにてたけんをはばかるものなり)」とあるため・・・近江屋事件に関連する秘匿情報が含まれると判じたのでしょうか?

越前御藩邸 (えちぜんごはんてい)

                   才谷楳太郎 (さいたに うめたろう・・・龍馬の変名)

  中根雪江様 (なかねせっこうさま)
                       御直披 (ごじきひ)         

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書翰の全文(副文をふくむ)は以下の通りです。

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 一筆啓上仕候 (いっぴつけいじょうつかまつりそうろう)
 此度越前老侯 (このたびえちぜんろうこう)
 御上京相被成候段 (ごじょうきょうあいなられそうろうだん)
 千万の兵を得たる (せんまんのへいをえたる)
 心中に御座候 (しんちゅうにござそうろう)
 先生ニも諸事 (せんせいにもしょじ)
 御尽力御察申上候 (ごじんりょくごさっしもうしあげそうろう)
 然るに先頃御直ニ (しかるにさきごろおんじきに)
 申上置キ三岡 (もうしあげおきみつおか)
 八郎兄の御上京 (はちろうけいのごじょうきょう)
 御出仕の一件ハ急を (ごしゅっしのいっけんは きゅうを)
 用する事に存候得ハ (ようすることに ぞんそうらわば)
 何卒早々御裁可 (なにとぞ そうそうごさいか)
 あるへく奉願候、三岡 (あるべくねがいたてまつりそうろう)
 兄の御上京が一日 (けいのごじょうきょうがいちにち)
 先に相成候得ハ (さきにあいなりそうらわば)
 新国家の御家 (しんこっかのおん か)
 計御成立が一日先に (けい おんせいりつが いちにちさきに)
 相成候と奉存候 (あいなりそうろうと ぞんじたてまつりそうろう)
 唯此所一向ニ御尽力 (ただこのところ ひたすらにごじんりょく)
 奉願候 (ねがいたてまつりそうろう)
          誠恐謹言 (せいきょうきんげん)
 十一月 十日
                   龍馬
中根先生
      左右 (そう)
 追白 今日永井玄蕃 (ついはく きょう ながいげんばの)
 頭方ニ罷出候得と も(かみかたに まかりいずそうらえども)
 御面会相不叶候 (ごめんかいあいかなわずそうろう)
 談したき天下の (だんしたきてんかの)
 議論数々在之候ニテ (ぎろんかずかずこれありそうろうにて)
 明日又罷出候所存ニ (あすまた まかりいずそうろうしょぞんに)
     御座候得ハ (ござそうらえば)
 大兄御同行相叶候ハヽ (たいけいごどうこうあいかないそうらわば)
 実ニ大幸の事ニ奉存候 (じつにたいこうのことにぞんじたてまつりそうろう)
         
              再拝 (さいはい)

龍馬

大政奉還のあと、新国家の準備に奔走する龍馬、その人材のひとりを親交ある福井藩に求め、三岡八郎の出仕を懇願する内容がていねいに記されている。
書翰は、慶応3年(1867)10月14日の大政奉還よりおよそ1カ月後、同年11月10日の日付、京都の福井藩邸に滞在中の同藩重臣・中根雪江に宛てたもの。当時、藩内の対立で謹慎中だった三岡を新政府に出仕できるよう求めた内容となっている。

龍馬が見込んだ三岡八郎(由利公正)とは―――福井藩士の三岡家に生まれ、福井藩に招聘されていた熊本藩士・横井小楠から財政学などを学び、藩主松平慶永に認められ、橋本左内らと藩政改革に当たる。産業奨励の責任者として、藩札発行のほか、生糸の輸出など販路の開拓をし、窮乏状態の藩財政を立て直した。

三岡と龍馬は意気投合し、攘夷で揺れていた文久3年(1863)には、龍馬が三岡の自宅を訪ね、横井小楠と共に国の将来を語り合う。大政奉還あとの10月末にも早速、福井を訪ねていた。京都に戻ってまもなく宛てたとみられる土佐の後藤象二郎へも、財政への課題に、名を挙げて高く評価していた。


ただ、今回の副文のなかに、幕府サイドの京都町奉行の永井玄蕃頭と直談したいと、何度も訪ねているが、面会できずに困っており、書翰の相手(福井藩の重臣、中根雪江)に対しても同行を乞う内容が気になるところだ―――永井玄蕃頭とは勝海舟を介して親交があったはずではなかったか?また永井は、新撰組に「坂本龍馬に手を出すな」と達しをしていたとも聞きます。

大政奉還

大政奉還のあととはいえ、めざす新政府の姿については、未だ幕府側とは烈しい駆引きがつづいていた。
京都所司代、見回り組(警察組織)とは、その中で、何か重大な行き違いがあったとも考えられる。

永井玄藩頭―――三河出身、嘉永6年(1853年)、目付として幕府に登用され、安政元年(1854)には長崎海軍伝習所の長として活躍する。
後に軍艦奉行に転進するも、直後の将軍後継者争いで一橋慶喜を支持して大老・井伊直弼により罷免され、失脚。

井伊直弼、没後の文久2年に京都町奉行として復職し、元治元年(1864)には大目付となる。文久3年(1863)の「8月18日の政変」、元治元年(1864)7月19日の「禁門の変」では幕府側の使者として朝廷と交渉するなど、手腕を発揮した。慶応3年(1867)には若年寄にまで出世し、大政奉還においても交渉能力を発揮する。

近江屋事件

そして、龍馬暗殺に、永井黒幕説もある—--桜田門外の変の後、幕府の政治総裁になった松平慶永の意向で京都町奉行に復職した永井は、新撰組や見回り組を使い、かなり厳しい取り締まりを行っていた。

龍馬暗殺事件で最も有力視されている京都見回り組説だが、その見回り組の後ろ盾だったのが京都町奉行の永井だった。「大政奉還に向け、龍馬が永井玄蕃頭と頻繁に会っていたのは大政奉還前後だったことを思うと、知己の間柄だったはずの二人がわずかの間に直談も適わない状態になったのはなぜだろう?

――――手を下した者、その背後にいた者、また、そこに何か特命を与えた者や組織などなかったのだろうか?

この書翰のあと、わずか数日の存命の間、両者の折り合いはついたのか・・・それぞれ描く未来図は、薩長、龍馬、幕府がわで異なっていたやに聞こえてくる。

この書翰が、龍馬が凶刃に斃れる、直前のものなら、文面以上に真に迫ってくるものがあります。



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