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西の桶狭間・今山の戦い

元亀元年(1570年・庚午)3月、北部九州に周防の大内義隆と覇を争っていた大友宗麟は肥前国において勢力を伸長させる龍造寺隆信を討伐するため、弟の大友親貞(ちかさだ)を総大将とした6万の大軍を肥前龍造寺領に送りました。

対する龍造寺側が動員できる兵力は5千足らずのため、ただちに佐嘉城に軍を集め篭城を開始した。大友親貞は圧倒的兵力を背景に、龍造寺軍の佐嘉城を包囲、攻撃を試みるも龍造寺軍の士気は高く縦横に廻らされたクリークなど地勢も味方し大軍をして抜き難い要害だった。

戦況は一進一退を繰り返しながら数ヶ月が経過したのですが、親貞は占いの凶兆等を気にし、総攻撃には未だ踏み切れないでいた。一方で龍造寺軍も長期の篭城戦に必要な物資など援軍の見込みも無く、このまま続けば落城は時間の問題と思われた。  
                   今山の陣
               
膠着状況に筑後の高良山に布陣し勝報を待っていた大友宗麟は、いつまでも知らせが届かないことに業を煮やし、ついに援軍を送って親貞に総攻撃を命じた。これを受けて親貞も8月17日今山に布陣し、ようやく、8月20日をもって佐嘉城に総攻撃をすることを決定したが、どうしたわけか総攻撃の前日の夜、親貞は今山の本陣で勝利の前祝いとして酒宴を開いてしまった。
援軍を得ての油断だったのか、戦勝祈願の予祝だったのか、はたまた竜造寺側の仕掛けた罠だったものかは分からない。

この動きを放った間者から入手した佐嘉城の鍋島信生(のぶなり・のちの鍋島直茂)は、今山の敵本陣への「十死一生」の夜襲を進言する。篭城での徹底抗戦論や降伏論が交わされていた龍造寺陣営は初め無謀だとして否定的だったが、軍議を耳にした隆信の生母・慶誾尼(けいぎんに)が檄を飛ばしたことで奇襲策が容れられ、信生以下鉄砲100余挺と500余の奇襲隊が編成された。
                  鍋島直茂

隊は20日未明に大友陣の背後の山から夜襲をかけると酔いつぶれ不意をつかれた大友軍は狼狽し逃げまどったが大将の親貞の頸は成松信勝らにより討ち取られる。この戦による大友軍の犠牲は二千に上ると云われます。

兵力の差では信長が今川義元を討った「桶狭間の戦(1560)」にも劣らない奇襲策として「西の桶狭間」ともよばれる「今山の戦い」として有名です。

問題は、鍋島直茂が17歳で元服し23歳のときに「桶狭間の戦」が起きており当然、10年後のこの場面では上洛を巡る群雄割拠の情報として直茂は得ていたことが奇襲策の進言として浮上したのではとも考えられる。古代からの兵法では奇襲や騙まし討ちをよしとしない暗黙のルールなどもあったからだ。

鍋島氏の先祖は、佐々木源氏で長岡伊勢の守経秀といい肥前鍋島に下る前は京都長岡に住んでいた由、近畿の情報を比較的容易に知りうる立場でもあったのではないでしょうか。

また、なぜ大軍の気の緩みとはいえ戦の前夜に酒宴を張ったのか?中世は「戦と日の吉凶を占う」というのは常であったとはいえ、どのような呪術だったかは知るよしもないですが、歴史とは不思議なアナロジーを示してくれるものだと思う。
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