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改暦の騒動

【改暦騒動】
―――今般、太陰暦を廃し、太陽暦御頒行相成り候につき、来る12月3日を以て明治6年1月1日とさだめられ候事(明治5年11月9日)。
寝耳に水?・・・明治5年も押し迫った頃、突然に発表された改暦の詔書!
翌日、東京日日新聞は、改暦詔書と関連した太政官布告第337号を付し、見出しも解説も付けずに掲載した。急な布告で、解説を付ける暇も無かった。

             太政官改暦詔書

現代のような通信ネットワークもない時代に、突如の改暦により、翌年の暦を印刷し終えていた業者だけではなく、国民各層にも、戸惑いが広がった・・・・・・新旧暦混して一定せず、これを太政官の何日、徳川の何日と云う(東京日日)

【トピックス】
備中の国にて或る商人、むすこに嫁を娶らんとて、婚礼は九月某日と定めしが、女の方はその日を待ち支度を整え、遥々数里の道を来たりしに、なんぞ計らん、婿の方には戸をさして沈まりかえって音も無なし。唯いびきの高瀬舟、ひくにひかれぬこの場のしぎ、門違いにはよもあらじと戸をたたけば、何事ならんと小言たらたら起き出て門開けばこはいかに、提灯あまた灯しつれ新婦の来るに驚駭したけれど、返すというは忌詞と眉間の皺をのしこんぶ、にわかに用意ととのえて、三々九度や四海なみ静かに事は納てぬという。

けだし婿は旧暦にて約し、嫁は新暦により来たりしならん(M6・11・27*東京日日)
――― 当時の婚儀のは嫁入り道中を立て、婚儀は夕方から夜中に行なった。

         嫁入り


【世情騒乱】---短期間の改革に世情不安にて各層の反対も相次いだ。

福井県の護法一揆:敦賀県下越前国大野郡頑民暴動の儀、ひとまず沈静の模様なりしが、再度動揺せりと。
この一揆の名とするものは、耶蘇宗拒絶の事、真宗説法再興の事、学校に洋文を廃する事……新暦を奉ぜず旧暦を固守し。 喋々浮説妄誕を唱え・・・・・M6、3.20東京日日

福岡県で七箇条の要求
一、旧知事を返すこと
一、他の官員を廃し自国の士族を返すこと。
一、士族の禄を旧に復すること
一、年貢三ヶ年延ばし収納のこと
一、官林切払い止めること
一、暦を旧に復すること
一、地券を廃すること・・・・・・M6.7 新聞雑誌

               地券


【改暦の顛末】
太陰太陽暦が廃され、太陽暦が正式に定まった。暦については、西欧諸国の採用している太陽暦との違いを政府の要人の間で提起されていたのですが、千有余年の間、生活に浸透している暦を変更することは容易なことではなかった。

然し当時「新政府」は、戊辰戦争の戦費や廃藩置県に伴って、膨らんでいた旧藩の借金を引継ぎ財政難に陥っていました。
此の、二進も三進もいかない状況が、翌年の暦が刷り上がっている状況にもかかわらず改暦の決断を下すことに相なった。

更に翌年(明治6年)は、太陰太陽暦のままだと閏年と成るため、閏6月を加えると一年が13ヶ月となり、公務員に13カ月分の月給を払わなければなりませんでした。

              旧暦


今、改暦すると、来る「閏月」は無くなり、支払いは12回で済む。更に明治6年1月1日は、陰暦の明治5年12月3日と重なっていたため、このタイミングで改暦すると、12月分の給与も不要となり、都合2ヶ月分の経費が浮くはずでした。ただ発表が迫る11月9日となり、改年の正月(12月3日)までは、1カ月を切っていた。

新しい暦も間に合わず、旧暦が印刷された後でしたので、政府の委託を受けていた民間の業者は大損害を被ったという。

今は、太陽暦が当たり前ですが、千年有余の文化をつむいできた、季語や節句の季節感など気をつけなければならないことも多い。新春といっても冬の真ん中で、雛祭りも花も咲かず、七夕の季語が秋なのに梅雨の真ん中となっています。暦は変っても日本文化を育んだ時令は旧暦時代のものばかりです。
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