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山川異域 風月同天

鑑真は743年55歳のとき、唐を訪れた留学僧・栄叡、普照より、朝廷からの「伝戒の師」としての招きを受け、渡日を決意したが、その後の10年間に5回もの渡航の失敗と視力の喪失を伴い、天平勝宝5年(753)、6回目の65歳での挑戦で漸く12月20日、薩摩の坊ノ津に辿りつき、有明海を北上し、佐賀の嘉瀬津の港に上陸した。

12月26日は大宰府で初めての授戒も行ってのちに平城京へ到着したとされる。

                薩摩坊の津

翌754年には東大寺に日本初の戒壇を設け、76歳までの10年間のうち5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺にて過ごし、天皇を始め多くの人々に授戒をされたようです。

鑑真上陸の地は鹿児島と佐賀にそれぞれ記念碑があるが、鹿児島の坊ノ津に寄港しながらも目的地に向けて北上し佐賀の嘉瀬津に上陸し陸路、大宰府へ向かったとみるのが自然に思う。

上陸記念碑は佐賀県、嘉瀬町の森林公園内に建立され、傍には誕生の地、揚州市より贈られた瓊花(けいか)が植えられている。

                鑑真上陸記念碑

なお、皇帝の反対を押し切ってまで日本に渡った理由については、いろいろな説が言われているが、『唐大和上東征伝』には、鑑真が来日するきっかけになった注目すべきエピソードを伝えている。

鑑真が来日を請われたとき、次のようなあの長屋王との経緯を述べたという。

「聞くならく、日本国の長屋王、仏法を崇敬し、千の袈裟を造り来り、この国の大徳衆僧に施す。その袈裟の縁の上に四句を繍着していわく『山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁』此をもって思量するに、誠にこれ仏法興隆し有縁の国なりと…」 鑑真は心を揺さぶられ、日本行きを決意したのだったが……

苦難の末にも来日を果たしたとき、長屋王はすでに藤原氏の陰謀により謀反の罪で自害させられていた。

                 鑑真3

鑑真と朝廷の蜜月も長くは続かず、鑑真は正しい仏法を伝え多くの僧を輩出するつもりだったが、朝廷のホンネは税金逃れの出家である私度僧を減らすことで、両者の思惑は対立し、758年、鑑真は大僧都を解任され東大寺を追われ、そのご熱心な信者からの寄進をえて唐招提寺を建立したという。
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