ねぶたと火祭り
8月は、旧暦の7月、十二支では「申」にあたる。気温はまだ猛暑が続きますが季節は、秋の「生」になり
立秋を迎える月です。
この月は、青森のネブタ祭り、秋田竿灯、宮城、七夕など東北の夏祭りが一斉に行われます。
共通するのは「火」をキーワードにしていること。俗説だと秋の収穫をまえにして眠気を抑える
呪いだとか、盆行事の禊ぎ祓いであるとかいわれていますがどれも五行説から解明するものは少ない
と思う。
ネブタ、竿灯は、見るからに「火祭り」であることはわかるが七夕も「火」を含んでいる。
「七」は、五行では火の成数を意味し、七月七日は火の象徴でもあり、七夕飾りの「竹」も勢いよく伸びること、それに
加えて中は空洞で外が硬い|:|の構造は易では離(火)そのものでなのである。
七夕には竹で馬をこしらえ奉納するところもあるが、これも竹も午も「火」であることから理に適う
ものであろう。

七夕にはホウズキを食べる、七夕に水田に入ると目をつき盲目になる・・などの風習も「ホウズキ」は
火そのものであり、水田にはいり草取りをすると五行相克で「水剋火」のため目を傷めるといわれる。
「目」「見る」は、五行では「火」に配当されているからです。
こう考えると、この季節の「火」を中心とした祭りは、寧ろ収穫の季節を前にして台風や降雨など水の
気が強くなる「冷害」から、圧倒的な「火」の勢いにより「山背」など冷風を防ぐことが込められて
いるものと考えたい。
竿灯は、そのまま火の形状であり、ネブタの武者提燈の目は大きく見開いて「火」
そのものをあらわしているではないでしょうか?
易で「申」は、秋の始まり(生)でもあるが、「申子辰」の三合では「水」の始まりとされる。また「巳申」の
支合でも「水」を表すため、「申」は、とりわけ「水」と関係が深くなっています。
神社の楼門などに「猿」の彫刻を飾るなどは火伏せを願ってのことのようだ。
また、典型的には、申子辰は「水の妖怪」の河童そのものをあらわしている。貌はネズミ、胴体は申、水かきを
もった鱗をもつ手足は龍をあらわす妖怪そのもである。
水辺に棲み、馬(火)を引き込むという伝承は、そのまま「水」の気の象徴と思われます。
申月は水の始で水の災害(陰気)が強まるために、水を剋すものは「土」であるが、
圧倒的な「火」の勢いを借りて土気を増幅し、風水害、冷害を防ごうという呪術が祭りに込められたと解釈もできる。
未だ猛暑の続く中ですが、七夕は秋の季語としていることで腑に落ちるというものであろうか。
立秋を迎える月です。
この月は、青森のネブタ祭り、秋田竿灯、宮城、七夕など東北の夏祭りが一斉に行われます。
共通するのは「火」をキーワードにしていること。俗説だと秋の収穫をまえにして眠気を抑える
呪いだとか、盆行事の禊ぎ祓いであるとかいわれていますがどれも五行説から解明するものは少ない
と思う。
ネブタ、竿灯は、見るからに「火祭り」であることはわかるが七夕も「火」を含んでいる。
「七」は、五行では火の成数を意味し、七月七日は火の象徴でもあり、七夕飾りの「竹」も勢いよく伸びること、それに
加えて中は空洞で外が硬い|:|の構造は易では離(火)そのものでなのである。
七夕には竹で馬をこしらえ奉納するところもあるが、これも竹も午も「火」であることから理に適う
ものであろう。

七夕にはホウズキを食べる、七夕に水田に入ると目をつき盲目になる・・などの風習も「ホウズキ」は
火そのものであり、水田にはいり草取りをすると五行相克で「水剋火」のため目を傷めるといわれる。
「目」「見る」は、五行では「火」に配当されているからです。
こう考えると、この季節の「火」を中心とした祭りは、寧ろ収穫の季節を前にして台風や降雨など水の
気が強くなる「冷害」から、圧倒的な「火」の勢いにより「山背」など冷風を防ぐことが込められて
いるものと考えたい。
竿灯は、そのまま火の形状であり、ネブタの武者提燈の目は大きく見開いて「火」
そのものをあらわしているではないでしょうか?
易で「申」は、秋の始まり(生)でもあるが、「申子辰」の三合では「水」の始まりとされる。また「巳申」の
支合でも「水」を表すため、「申」は、とりわけ「水」と関係が深くなっています。
神社の楼門などに「猿」の彫刻を飾るなどは火伏せを願ってのことのようだ。
また、典型的には、申子辰は「水の妖怪」の河童そのものをあらわしている。貌はネズミ、胴体は申、水かきを
もった鱗をもつ手足は龍をあらわす妖怪そのもである。
水辺に棲み、馬(火)を引き込むという伝承は、そのまま「水」の気の象徴と思われます。
申月は水の始で水の災害(陰気)が強まるために、水を剋すものは「土」であるが、
圧倒的な「火」の勢いを借りて土気を増幅し、風水害、冷害を防ごうという呪術が祭りに込められたと解釈もできる。
未だ猛暑の続く中ですが、七夕は秋の季語としていることで腑に落ちるというものであろうか。
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