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閑叟(かんそう)の「鮎」

―――春風の 匂う十七瀬の 瀧つせに さはしる香魚は 櫻なりけり。

佐賀十代藩主、鍋島直正(閑叟)の(嵐山の花見に行きて)の歌である。
閑叟は、たくさんの歌を詠んだ。

                         瀧津瀬

九代藩主斉直の秕政や、フェートン号事件等の顛末を継嗣して、十七歳にして初めて藩主として江戸より領国に下った直正は、長崎警備の任と、藩財政の窮迫の中、時おり九州の嵐山とも称された明媚な川上川(嘉瀬川)の景勝を好んだ。

肥前国、一の宮とされる淀姫神社の存する地は、急峻な川上渓谷を砕いて下った麓に在り、佐賀平野と前海(有明海)をのぞむ累代藩主の川狩(川漁)の場として愛された。

                         香魚

春になり水が温むと、清流川床には、銀鱗を翻してさ走る香魚(鮎)の煌めきが映った。
「河畔に連なる満開の櫻が風に舞う様は、波たつ瀬に刀身を躍らせる香魚の如し」と感嘆したに違いない。

川上川の鮎の評判は、近隣の国まで知れていた。島原藩主、松平大和守も、長崎聞番の米倉権兵衛に宛て「川上川の鮎の風味が格別で、味もよいと聞いているので個人として取り寄せてくれまいか」と書簡を送ったとある。
                      
                         河岸の櫻

直正は、渓流を挟んで眺望できる傾斜に、「十可亭」という庵を拵えて逍遥した。
幕末の動乱期に、守旧癖たる家臣らに囲まれ、何とか諸外国からの圧力に対処するべく人材の育成と藩財政の立て直しに
取り組むも、難儀だったに違いない。

曰く、「佐賀藩に漲る弊風の原因は、不学文盲にして修己治人の道を学ぼうとする意欲乏しく、武事でも葉隠一巻にてこと足りると、考え違いをしている。游惰妬忌の風を改めるには、身分障りなく才力のあるものが登用されることが要である」と、文武出精を命じた。―――脱藩者をも人材として寛大に遇した由縁である。

                         三重津海軍所

儒学、忠孝一辺倒の藩風を揶揄し、蘭学を奨め、自らは時流の陽明学を修得していた。
初の国産反射炉の築造や、大砲、軍船の建造など行い、回天の維新に備え動き出した晩年には、病をえて思うように対処できないで居た。然し、幸いにも、自らが育てた人材らを維新の枢軸に送り込むことで新政府への魁とした。

――― 吾宿は 霞が関の 麓にて 春風にほふ 櫻田のさと。

襲封に至るまで、江戸で育った閑叟は、晩年も、我が宿と称した霞が関の櫻田藩邸にて命を全うした。
「藩主は東京に埋葬する」の令の為に、やむなく遺髪のみを此の地の春日山の頂に墓所として、漸く歌を詠んだ「瀧つ瀬」に帰ったともいえる。

                         春日墓所

今、嘉瀬川(川上川)の上流には、県内随一の多目的ダムも完成し、灌漑、洪水の難も消えたが、櫻の花びらのように鱗を翻した香魚の姿も消えてしまった。
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