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市神と商い

里山の秋、収穫が終わり、柿の実が赤く熟し、木枯らしが吹き渡る頃になると、商いの荷を担いだ、山人、浜人らが、代わるがわると訪れてくる。
山人は、狩の獲物や、樹木や蔓などで拵えた生活用具や薬草などを積み、浜人は、魚介類や加工品、また農産品の保存や加工に必要な塩などを担いでやって来た。

初めは、互いの余剰品の交換から始まり、取引が恒常化すると、次第に貨幣や通い帳(掛売)による取引に広がった。このような交易を、秋が深まった頃に売買、或は決済を行なう「秋(あき)ない」と呼ぶようになった。

            里山


「あきない」に、「商」を当てたのは、中国古代王朝、夏の桀王を滅ぼし商王朝を建てたたものの、紂王のときに周の武王に滅ぼされた商国の人は、後に行商をする漂泊の民となり、商人の生業(なりわい)と云われた。「商」とは、行商人を意味し、品々をストックして店を構える「賈(コ)」とは分けていた。後にはどちらも区別しないで「商い」の意味に用いられた。つまり商人(あきんど)とは、このように行商人のことを意味していた。

             行商

商いには、生業として自らの生産品、工芸品を売り歩く「振り売り(行商)」と、特定の期間や場所に、売り店を立てる「市」に分かれた。市は、縁日や祭日に立つ定期の市と、城下や街なかに立つ常設の市に分かれ、常設の店が、次第に専業の小売商や問屋として規模を拡大した。

秋の収穫のあと、一年の決済を済ませ、新年を迎える暮れの月を「極月」と呼び、収穫した農産品を換金して、収穫までの費えを精算をするために多くの商人たちが、里山の奥にまで足を運んだ。荷駄や天秤棒を担いだ商人たちが、商品の流通と注文に働いた。その中からやがて多くの財を成す者も出てくる。

農業は、開墾や戦により耕地を拡大しないと富を増やすことはできないが、商い人は、才覚ひとつで買い手の需要を読み、差配すると巨万の富を得るチャンスも増えた。

              峠

市が立った当初は意外な場所だった。国境(くにざかい)の峠や辻境、舟の行き来する港湾や中洲、神社や仏閣の門前など、今のような人口集積地とは限らなかった。
自らの生産物を、他国の地まで運び入れるリスクもあり、中間の国境、峠などに持寄り交換する市庭である。取引が成立した場合に、互いに持ち帰る労力を考慮すると合理的でもあった。

市庭は、斎(いつき)の庭であり、持ち込んだモノ(品)の魂を解き放し市神のもとに取引が許された場所であった。小国が乱立した時代は、行商や、地域間の交易もリスクがあり、どちらかといえば、この様な辺縁の境界のほうがが適していた。藩政の時代も自由に関所を通ることは許されず、小前百姓の作間稼ぎの商いも許可を得る必要があった。

市には、次第に多くのモノや人々が集散した。
人やモノが集まる処には情報が集まり、市は「多機能化」し、様々な市が立ち、生活用品や道具、農耕の助けとなる牛馬も登場した。・・・他には、労働力としての「人足」や「奉公人」、或は「嫁市」と呼ばれるものまで見られた。女性や子供も家族の一員であると同時に労働力であり、殊に働き手を再生産できる女性は、家業存続にとって必要なものだった。

              馬市


古代の海石榴市、肥前杵島岳など、いわゆる歌垣の場に男女の求婚がみられたように、市で縁を得た嫁の交渉人として、仲人を立て、縁組のお披露目をする文化にもなった。奉公人を斡旋を行う「口入れ屋」、品物の損料を取り衣服、布団、家財道具などをレンタルする「損料屋」のルーツのようなものもある。
鍋釜を修理する鋳掛屋(いかけや)、刃物などの研屋(とぎや)、大工に、荷駄を運ぶ馬子(まご)など・・・市は様々の職業の母胎となった。

市が盛んになりモノ、人の交易が拡大すると商いの機能も分化し、様々なサービスを生み近代商業へと変化を遂げていったと思う。今でも原始の「市神」の息吹を残していると思うと楽しくなる。
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