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龍馬暗殺5日前


坂本龍馬が慶応3(1867)年、11月15日京都、近江屋にて襲撃され斃れる事件のわずか5日前に、福井藩重臣へ宛てた直筆の手紙が発見されました。

その封紙には、以下のように記されています・・・・・
朱書で、「坂本先生遭難直前之書状に而他見ヲ憚ルモノ也 (さかもとせんせいそうなんちょくぜんのしょじょうにてたけんをはばかるものなり)」とあるため・・・近江屋事件に関連する秘匿情報が含まれると判じたのでしょうか?

越前御藩邸 (えちぜんごはんてい)

                   才谷楳太郎 (さいたに うめたろう・・・龍馬の変名)

  中根雪江様 (なかねせっこうさま)
                       御直披 (ごじきひ)         

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書翰の全文(副文をふくむ)は以下の通りです。

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 一筆啓上仕候 (いっぴつけいじょうつかまつりそうろう)
 此度越前老侯 (このたびえちぜんろうこう)
 御上京相被成候段 (ごじょうきょうあいなられそうろうだん)
 千万の兵を得たる (せんまんのへいをえたる)
 心中に御座候 (しんちゅうにござそうろう)
 先生ニも諸事 (せんせいにもしょじ)
 御尽力御察申上候 (ごじんりょくごさっしもうしあげそうろう)
 然るに先頃御直ニ (しかるにさきごろおんじきに)
 申上置キ三岡 (もうしあげおきみつおか)
 八郎兄の御上京 (はちろうけいのごじょうきょう)
 御出仕の一件ハ急を (ごしゅっしのいっけんは きゅうを)
 用する事に存候得ハ (ようすることに ぞんそうらわば)
 何卒早々御裁可 (なにとぞ そうそうごさいか)
 あるへく奉願候、三岡 (あるべくねがいたてまつりそうろう)
 兄の御上京が一日 (けいのごじょうきょうがいちにち)
 先に相成候得ハ (さきにあいなりそうらわば)
 新国家の御家 (しんこっかのおん か)
 計御成立が一日先に (けい おんせいりつが いちにちさきに)
 相成候と奉存候 (あいなりそうろうと ぞんじたてまつりそうろう)
 唯此所一向ニ御尽力 (ただこのところ ひたすらにごじんりょく)
 奉願候 (ねがいたてまつりそうろう)
          誠恐謹言 (せいきょうきんげん)
 十一月 十日
                   龍馬
中根先生
      左右 (そう)
 追白 今日永井玄蕃 (ついはく きょう ながいげんばの)
 頭方ニ罷出候得と も(かみかたに まかりいずそうらえども)
 御面会相不叶候 (ごめんかいあいかなわずそうろう)
 談したき天下の (だんしたきてんかの)
 議論数々在之候ニテ (ぎろんかずかずこれありそうろうにて)
 明日又罷出候所存ニ (あすまた まかりいずそうろうしょぞんに)
     御座候得ハ (ござそうらえば)
 大兄御同行相叶候ハヽ (たいけいごどうこうあいかないそうらわば)
 実ニ大幸の事ニ奉存候 (じつにたいこうのことにぞんじたてまつりそうろう)
         
              再拝 (さいはい)

龍馬

大政奉還のあと、新国家の準備に奔走する龍馬、その人材のひとりを親交ある福井藩に求め、三岡八郎の出仕を懇願する内容がていねいに記されている。
書翰は、慶応3年(1867)10月14日の大政奉還よりおよそ1カ月後、同年11月10日の日付、京都の福井藩邸に滞在中の同藩重臣・中根雪江に宛てたもの。当時、藩内の対立で謹慎中だった三岡を新政府に出仕できるよう求めた内容となっている。

龍馬が見込んだ三岡八郎(由利公正)とは―――福井藩士の三岡家に生まれ、福井藩に招聘されていた熊本藩士・横井小楠から財政学などを学び、藩主松平慶永に認められ、橋本左内らと藩政改革に当たる。産業奨励の責任者として、藩札発行のほか、生糸の輸出など販路の開拓をし、窮乏状態の藩財政を立て直した。

三岡と龍馬は意気投合し、攘夷で揺れていた文久3年(1863)には、龍馬が三岡の自宅を訪ね、横井小楠と共に国の将来を語り合う。大政奉還あとの10月末にも早速、福井を訪ねていた。京都に戻ってまもなく宛てたとみられる土佐の後藤象二郎へも、財政への課題に、名を挙げて高く評価していた。


ただ、今回の副文のなかに、幕府サイドの京都町奉行の永井玄蕃頭と直談したいと、何度も訪ねているが、面会できずに困っており、書翰の相手(福井藩の重臣、中根雪江)に対しても同行を乞う内容が気になるところだ―――永井玄蕃頭とは勝海舟を介して親交があったはずではなかったか?また永井は、新撰組に「坂本龍馬に手を出すな」と達しをしていたとも聞きます。

大政奉還

大政奉還のあととはいえ、めざす新政府の姿については、未だ幕府側とは烈しい駆引きがつづいていた。
京都所司代、見回り組(警察組織)とは、その中で、何か重大な行き違いがあったとも考えられる。

永井玄藩頭―――三河出身、嘉永6年(1853年)、目付として幕府に登用され、安政元年(1854)には長崎海軍伝習所の長として活躍する。
後に軍艦奉行に転進するも、直後の将軍後継者争いで一橋慶喜を支持して大老・井伊直弼により罷免され、失脚。

井伊直弼、没後の文久2年に京都町奉行として復職し、元治元年(1864)には大目付となる。文久3年(1863)の「8月18日の政変」、元治元年(1864)7月19日の「禁門の変」では幕府側の使者として朝廷と交渉するなど、手腕を発揮した。慶応3年(1867)には若年寄にまで出世し、大政奉還においても交渉能力を発揮する。

近江屋事件

そして、龍馬暗殺に、永井黒幕説もある—--桜田門外の変の後、幕府の政治総裁になった松平慶永の意向で京都町奉行に復職した永井は、新撰組や見回り組を使い、かなり厳しい取り締まりを行っていた。

龍馬暗殺事件で最も有力視されている京都見回り組説だが、その見回り組の後ろ盾だったのが京都町奉行の永井だった。「大政奉還に向け、龍馬が永井玄蕃頭と頻繁に会っていたのは大政奉還前後だったことを思うと、知己の間柄だったはずの二人がわずかの間に直談も適わない状態になったのはなぜだろう?

――――手を下した者、その背後にいた者、また、そこに何か特命を与えた者や組織などなかったのだろうか?

この書翰のあと、わずか数日の存命の間、両者の折り合いはついたのか・・・それぞれ描く未来図は、薩長、龍馬、幕府がわで異なっていたやに聞こえてくる。

この書翰が、龍馬が凶刃に斃れる、直前のものなら、文面以上に真に迫ってくるものがあります。



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